玄関に彼女の靴が揃えられているのを見て、帰ってきたことを告げてみる。
返事はない。とはいえ、それ自体は別段気に留めることでもなかったので、自分も靴を脱いで居間に上がる。
夕飯の買い物のために家を出たとき、彼女はソファーに寝転びながら、お気に入りの歌集を読んでいた気がする。しかし、今はシーツに皺がついていてその痕跡はあるものの、彼女はそこにはいなかった。
横にあるハンモックにも、彼女の姿はない。
靴がある以上出かけたわけではなさそうで、今彼女に用事があるというわけでもない。だから焦って彼女を探す必要はないのだけれど、ここまでくるとただ純粋に、彼女の顔が見たくなってしまった。
何の変哲もないその休日の午後は、このようにして始まったのだった。
居間の真ん中で改めて彼女の名を呼んでみるが、相変わらず返事はない。どうやら居間の近くにはいないらしく、歩を進めて寝室へと入ってみる。
ハンモックを買ってからというもの、彼女は家に来るときもそこで昼寝をするようになった。だからこの時間に彼女が寝室にいる確率は低いのだけれど、見つからないのなら隅々まで探すしかない。
だが、そんな思惑はドアを開けた瞬間に外れた。他ならぬ自分のベッドの上で、布団がもっこりと山を作っている。そしてその山が少し忙しなく、けれど楽しそうに小刻みに動いているのを見れば、そこに彼女がいるという事実を認めざるを得ない。
「…ははは」
どうしてこんなことをしているのかは知らないけれど、この中に彼女がいてもぞもぞと動き回っていることを想像すると、可愛らしくてそれだけで笑みが溢れる。見たわけでもないのにその姿を想像するだけで幸せで仕方ないのは、骨の髄まで彼女に毒されている証拠かもしれないけれど。
盛り上がった布団の山を優しくとんとんと叩いて、そっと名前を呼ぶ。もぞもぞと動くのが一瞬だけ止まって、今度は布団の端に向かってゆく様は、やはりひどく可愛らしかった。
「随分かわいいかたつむりになったなぁ」
「ふふっ。ありがとう。
ここ、居心地いいんだもん。住みたくなっちゃうくらい」
被った布団から頭だけを出す滑稽な格好をしていても、整った顔立ちに笑顔を乗せた彼女はどうしようもなく美しい。ずるいと思いながらも結局それに見惚れてしまうのは、惚れた弱みと言う他ないのだけれど。
「で、どうしてそうなっちゃったの」
「知らなかった?
布団に潜るのって、結構楽しいんだよ」
なんだ、そんなことも知らないのかとでも言うようににこにこと笑うシービーは、捕まえようと伸ばした手から逃れるように、またすぽりと布団の中に潜ってしまう。違うところから顔を出した彼女をもう一度捕まえようとするけれど、もぐら叩きのように綺麗にあしらわれてしまう。
「あははっ。こんなふうにね。
昔、お父さんもこうやって遊んでくれたなぁ」
いっそう楽しそうにけらけらと笑う彼女に、疲れ果てた両手を下ろして降参を告げる。けれどその手の中に彼女の手が滑り込んで優しく引っ張られると、少し悪戯っぽくて妖艶な光を宿した瞳から、目が離せなくなる。
「おいでよ。
もっといっぱい教えてあげるから」
繋いでいた手と手が離れて背中にその感触を感じると、彼女に抱き寄せられるままに、身体がベッドに倒れ込んでいた。
マットレスの沈む感触と、嗅ぎ慣れた毛布の匂い。けれどその中に、彼女の柔らかな温もりと、爽やかでほんのり甘い匂いが交じる。
「ちっちゃい頃にさ、たまにこうやって頭まで布団に入るのが好きだったんだ」
そういう彼女は、きっと楽しそうに微笑んでいるのだろう。触れ合った温もりが動く感触がこそばゆくて、けれどもっと感じていたいと思うのをやめられない。
とはいえやはり愉快さは抜けなくて、そう問う声も自然と半笑いになってしまう。何もかもが可笑しいと言うように二人して笑っていると、彼女が語る子供の頃に戻ったようだった。
「夜が恋しくなって、日が暮れるまで待てないって思うときがあるんだ」
けれど、胸に顔を埋めた彼女の、夜に焦がれるその声を聞いているときの想いは、子供の憧れだけでは説明できないだろう。
彼女の言う通り、外の光はほぼ完全に遮られていて何も見えない。だからこそ、腕の中にある彼女のぬくもりを、いつも以上に感じてしまう。
「布団をすっぽり被って暗くなるようにして、その中にいろんなものを持っていくんだ。
ランプをつけて音楽を聞いてると、なんかそれだけで楽しくてさ」
「自分だけの場所に好きなものが揃ってるって、それだけですごくわくわくするんだよね。
久しぶりにやってみたくなってさ、きみのベッド借りちゃった」
誰にも見られない自分たちだけの空間を手に入れたという、久しく忘れていた喜びを思い出す。その中に愛するひとといるという幸福は、子供の頃にはなかったものだけれど。
「ああ、いいな。ひとりだけ夜を先取りできるなんて」
「でしょ?
だからさ、きみも一緒に来てよ」
ふたりだけの小さな夜に、もう少しだけ浸っていたくなった。
一人で使うには十分な広さのセミダブルベッドだったが、大人二人が頭まで布団に入れば話は別だ。童心に帰ってみたはいいが、悲しいことに自分も彼女も身体まで子供に戻ることはできない。
「あはは。流石に狭いね。アタシときみだけでいっぱいだ。
それはそれで幸せだけど、そういうことじゃないんだよね」
「だな。ここは秘密基地だもん」
示し合わせたように同じことを考えているとわかって、自然に笑みが溢れる。彼女もきっと、それは同じことなのだろう。
「いいね。わかってるじゃん。だったら──」
「ああ。基地は広げるときが一番楽しいんだよな」
そんな瞬間が、一番楽しい。
彼女と同じものを見ている。そのことがどこまでも、心の中を満たしてくれる。
「ふふ、テントみたい。
いいね、暗いのはそのままだ」
身体を起こしきれば天井に当たってしまうのはそのままだけれど、さっきよりもずっと広い空間がそこにはあった。毛布の隅を捲り上げると、脚の先でちょんちょんと楽しげにその天蓋に触れる彼女がいた。
「それにあったかい」
「はは。布団の中だからな」
どれだけ広くなったかを味わうように大きく身体を広げていた彼女は、やがてすっくと身体を起こして布団から出た。
「入れたいものがいっぱいあるんだ。取ってくるね。
きみも好きなもの持ってきなよ」
「食べ物はだめだぞー」
「あはは、わかってるよ」
彼女と同じように口元が緩むのを抑えられないまま、ひとりになった部屋の中を物色する。
自分は昔、何が好きだっただろうか。彼女は何を、この小さな秘密基地に持ってゆくのだろうか。
この小さな夜には、何が似合うだろうか。
益体もないそんな考えを巡らせるのが、ただ純粋に楽しかった。
意識しているわけでもないのに、楽しくてつい歌い出してしまう。好きなものがありすぎて、どれを持っていこうかと贅沢な悩みに浸りながら。
いつでもできる、いちばん小さなピクニックをしているんだ。そう気づいてから、アタシはずっと楽しくて仕方なかった。
そんな時間に付き合ってくれるひとがいるということが、ひどく嬉しかった。
好きなものを小脇に抱えて、彼と一緒にもう一度あの暗がりに戻る。それさえもなんだかうきうきして、彼と顔を見合わせて笑い合っていた。
枕元に吹いた香水の匂いが立ち上ってきて、うっとりとして目を細める。その優しい香りに乗せるように、ゆったりとピアノの音が聞こえてくる。
顔を上げると、彼がひどく心地よさそうに笑っていた。目が合った瞬間にその微笑みが深くなったから、きっとアタシも同じような顔をしていたんだろう。
ああ、やっぱりやってみてよかった。
こんなに穏やかな時間は、本当に久しぶりだから。
「それは?」
彼が懐から、掌にぴったりと収まるくらいのガラス玉を取り出した。澄んだ水で満たされたどこまでも深く青いその色に、アタシはあっという間に夢中になっていた。
「子供の頃に作ったんだ。ほら、こうやって」
彼の手がそれをくるりとひっくり返すと、底に落ちていた色とりどりの砂が、ゆっくりと揺蕩いながら落ちていく。ランプの柔らかな光に照らされたそのひとつひとつが、青い水の中できらきらと輝いていた。
一刻ごとに表情を変えてゆくその光と、それを見つめる彼の顔を代わる代わる眺める。そんな一途な瞳がひどく優しいものだから、知らないうちに顔が綻んでしまう。
「綺麗だね。
夕暮れの海の中って、こんな感じなのかな」
思った通りを口にしたアタシを受け入れてくれるように、彼もにこりと微笑んでくれた。
同じものに夢中になって、同じように美しいと思う。そんな時間を分かち合えることが、何よりも嬉しかった。
きみと一緒に過ごす時間って、きっとそういうものだ。
アタシはそれが好き。きみがアタシの好きなものを愛してくれるのも、きみの愛したものがアタシの心にもぴったりはまるのも、大好き。
「ありがとう。
いいね。こういうくだらない遊びに、いっしょに本気になれるって」
いっしょに大人になってほしい。いっしょに子供に帰ってほしい。
アタシの気まぐれな旅の景色は、きみのレンズで映してほしいから。
だから、普段はできないことをもっといっぱいしてみたくなるんだ。
「読んで」
「ん?」
穏やかに問うた彼の手に、一冊の古い本を握らせる。それは子供のころに何度も読んだ、大好きだった物語だった。
それを見た彼は、得心がいったように笑った。
「ああ。これか。
懐かしいなぁ。俺も読んだことある」
何度も何度も、それこそページが擦り切れるくらい読んだはずなのに、まるで飽きが来ないのが実に不思議だった。
何度も読んで、何もかも知っている。なのに物語は少しも色褪せることなく、美しいまま残り続ける。
ページをめくる度に、新しい光を放つように。
「読んでよ。
きみが好きなところ」
だから、きみに聞かせてほしいんだ。
昔好きだった、優しくて少し悲しいお話を。
『知ってる?流れ星が海に落ちると、燃え尽きないでずっと固まって残るんだ。
だから海の底には、数え切れないくらいたくさんの星が光ってるんだよ。本物の星空にも負けないくらい、たくさん』
だから、海を知らないその女の子は、男の子のおはなしが大好きだったのです。
真っ白な病室よりも、本当の海よりも、ずっと。
女の子は男の子が好きでした。
『ねぇ。元気になったら、いつかわたしを連れて行ってくれる?』
『…うん。きっとね』
優しい嘘をついてくれるときの少し寂しそうな笑顔も、ぜんぶぜんぶ好きだったのです」
「綺麗だよね、このお話。
優しくて、その分だけ切ない」
静かに微笑みながらアタシの話を聞いてくれる彼と、同じ世界を共有しているこの時間が好きだ。たとえそれが仮初のものだったとしても、この小さな夜はどうしようもなく美しいんだから。
それが嘘でも、嘘だからこそ、心を動かす美しさがある。
あの物語のふたりのように。
「その男の子って、すごく優しい声だったんじゃないかなって。
嘘だってわかっててもそれが嬉しくなるような、優しくて、ちょっとだけ悲しそうな声」
どこまでも唐突なのに、信じてみたくなる。
きみの話す言葉には、そういう夢がある。あのときも、今も。
物語のあの子も、今のアタシも、そんな言葉に夢を見ている。
「きみの声、好きだな。ずっと聞いてられる。
ずっと聞いてたくなるんだ。それだけで、」
だからさ、言ってよ。
アタシの好きなきみの声で。
「やっぱりいいな、ここ。好きなものもやりたいことも、なんでもあるんだもん」
ただの仮寝の天幕の中に思いついたものを手当たり次第に詰め込んで、きみと一緒に味わい尽くす。それだけのことがどうしてこんなにも楽しいのか、アタシには不思議で仕方なかった。
こんな小さな暗闇の中に、楽しいことが全部詰まっているような、そんな気持ちにさせられるなんて。
ああ、でもひとつだけ、この夜に足りないものがあった。
空を見上げても何もない夜は、少しだけ寂しいものだ。何を目指して手を伸ばせばいいのか、わからなくなってしまうから。
それを聞いた彼はアタシの頭を撫でながら暫くゆったりと微笑んでいたけれど、急に何かを思いついたように飛び起きて、ベッドから降りた。
「ちょっと待っててくれ」
俄にひとりになった天幕の中で、手持ち無沙汰を紛らわすように指を遊ばせる。
追いかけようとは思わなかった。彼が何をしてくれるのかを、楽しみにしておきたかった。
こんなに心待ちにしてしまっていることが少しだけ恥ずかしいけれど、きっと彼には知られてしまっているだろう。顔は見えなくても、耳と尻尾はきっと忙しなく動いているだろうから。
「もういい?」
「うん。いいよ。
上見てみて」
目を瞑って仰向けになって、ゆっくりと瞼を開けてみる。
ないものねだりだったアタシのほしいものが、そこにあった。
黒い覆いに小さな穴を開けただけの簡単な仕掛けだと、種明かしをすればそれだけのことなのだろう。
でも、たったそれだけのことがアタシの心を満たしてくれることが、どうしようもなく素敵だと思えた。
「ここにはなんでもあるって、シービーが言ってくれたから。
本当にそうだったらいいなって思ったんだ」
本当に、魔法みたいだね。
誰にでもできることで、誰にもできなかったことをやっちゃうなんて。
アタシはそれが好き。本物の魔法より、ずっと。
「ははは。やっぱりあんまりうまく映らないな」
それを見上げて照れくさそうに笑うきみの横顔がどうしようもなく愛おしくて、つい思いきり抱きしめてしまう。
「ううん。
綺麗だよ。もしかしたら、本物よりも」
不恰好だときみは笑うけど、そんな不恰好さがアタシには美しく思える。
誰でもないきみの手が、アタシの願いを叶えてくれたって証拠だから。
ふたり分だけの夜に開く、アタシときみだけの天体観測。
星をひとつ数える度に、アタシの中に幸せが満ちる。
だから、見せてよ。もっとたくさん。
アタシたちだけに見える幸せが、こんなにいっぱいあるってことだもの。
腕だけじゃ物足りなくなって、脚でも挟み込むように、ぎゅっときみにしがみつく。
今だけはきみとアタシの間に、少しの隙間も作りたくなかった。
「…動けないよ」
「えー。いいじゃん。
ここにいてよ。アタシのいちばん近くにさ」
アタシの好きなもの。アタシのやりたいこと。
それがぜんぶアタシのそばにあるんだって、感じたかったから。
きみの身体も、心も、ぜんぶこの中にあるんだね」
アタシのいちばん大事なものが、アタシのいちばん近くにある。
それを小さな夜と一緒に閉じ込めた、アタシだけの宝箱。
だからさ、もっと抱きしめていい?
いちばん好きなものを、ひとりじめしていたいから。
「きみの好きなものもあるかな」
「…あるよ。ちゃんと」
そう言って抱きしめてくれるきみを、もっともっと感じていたいから。
アタシも彼も随分よく眠っていたらしく、外は日暮れさえ過ぎてすっかり夜になっていた。
「散歩とかしてみる?」
同じように目覚めた彼が優しく訊いてくる。その提案は魅力的だけれど、今はまだアタシたちの小さな夜の余韻に浸っていたかった。
「ううん。まだいいよ。
今は、きみの手が届くところにいたい」
それを聞いた彼の頬が嬉しそうに寄せられるのが嬉しくて、応えるようにアタシも彼を押し返す。
「そのかわりさ、窓開けてよ。
月が綺麗だよ」
また、きみと美しいものを見られる。
それがただ嬉しかった。
「特等席だね。アタシ専用だ」
しばらくそれに見惚れていると、彼の手がそっと頬に回されて、くるりと真上を向かされる。
「ん…どうしたの?」
「…綺麗だから。
あんまり綺麗だから、このまま月まで行っちゃうんじゃないかって。
…なんてな」
目が合った彼の表情は、少しだけ照れくさそうに微笑んでいた。
今日の月は、確かにひどく綺麗だ。少し妬けてしまうのも仕方ないのかもしれない。
「…ふふふっ、あはははっ。
行こうよ。きみと、アタシでさ」
だからこそ、きみと一緒に味わいたいんだ。
「ん?」
「だいすき」
シービーとくだらなくて楽しい遊びに夢中になりたいだけの人生だった
でも即席のプラネタリウムもこれはこれでいいねって続けるんだ…