今日はトレーニングがない日で、トレーナーさんにも体を休めるように言われている。
だが、重賞レースである京阪杯を走ることを考えるといてもたってもいられず、いつのまにか私はグラウンドに立っていた。
とはいえ、本来休むべき日である。体を酷使するわけにもいかず、慣らす程度に体を動かした後、私は人気のない木陰のベンチに腰かけた。
「調子は悪くはない。タイムも良くなってきている……だけど」
メイクデビューで勝利を果たしたのち、G1である朝日杯に抽選で出走するも、結果は最下位。
その後も条件レースでは何度か勝利できたが、OP戦や重賞では結果は振るわなかった。
その最たる理由は、精神的な脆さにあると私は考えている。
元々私は人前に出ることが苦手で、他の子たちよりも強く出ることが苦手な性格だ。レース中にバ群に揉まれるのも苦手なため、ハナを取って逃げる戦法を選んだほどだ。
デビュー戦や条件戦はそのおかげでなんとか乗り切れたが、大きなレースでは、やはり周りからの注目や、他の出走者からのプレッシャーも大きくなる。
そのためか途中で足がすくんでしまい、自分の力を出し切ることができずにいるように思える。
このままではいけない。そう思うたびに、周りから押しつぶされるような感覚を感じ、足はますます重くなっていく。
悪循環に陥っているのを実感しつつも、どうすればいいかわからず、ぐるぐると頭の中で葛藤し続けていた。
「ふぇっ!?あ……な、何でしょうか?」
ふいにかけられた声に驚き振り向くと、そこには一度も話したことはないが、よく知っている顔があった。
ロードカナロア。彼女は、私と同じ年ながら、一年早く短距離路線でデビューし、すでにG1にも勝利しているウマ娘である。
「いや、さっきからここでぐるぐる歩き回ってるから」
「あ……ごめんなさい!これはただのクセというか……」
小学生の時にからかわれて以来、恥ずかしくなって人前ではなるべくしないように気を付けているのだが、考え事をしているときなどに、昔ほど激しくではないが、ぐるぐると歩き回ってしまうことがあった。
どうやら、つい今しがたも、悩んでいるうちに無意識に歩き回り続けていたらしい。
「まあ、ボクは別にいいんだけど……君、同じ学年の子だっけ?何か悩み事?」
「あ、いや、別に人に話すほどじゃ……」
「話してみなよ。ちょっとは気が楽になるかもよ」
「……そうだね。じゃあ、ちょっとだけ……」
トレセンに来て周りのレベルの高さに打ちのめされたこと、重賞で足がすくんでうまく走れなかったこと、そして憧れの人とのギャップ。
「私、サクラバクシンオーさんに憧れてトレセンに入ったの。誰よりも堂々として、そして速くて。……でも、私は、全然あの人みたいには走れていない。」
そう言って少しの間沈黙が続いたのち、黙って私の話を聞き続けてくれていたカナロアが、沈黙を打ち破った。
「ボクにもわかるな。その気持ち」
「ボクもね、憧れの人に追いつきたくてトレセンに入ったんだ。小さい頃からいつも一緒で、誰よりもかわいくて、強くて、速くて……そして、誰よりも堂々としていた。ボクがびくびくしていても、あの子がいつも傍で笑ってくれていたから頑張ってこれたんだ」
その話をするカナロアの目はキラキラ輝いて見えた。まるで、ヒーローの話をする小さな男の子のように。
「ねえ、君には今までバクシンオーさんみたいに堂々と走れた時ってある?」
「そんな気持ちでいられたのは、本当に小さいときくらいかな……」
「だったらその時みたいに走ってみなよ。悩みなんか吹き飛ばして、小さいときみたいにさ。そしたら何か変わるかもよ」
「おっと、もうこんな時間か……ごめん!次のレースの打ち合わせがあるから、もう行くね!」
「あっ、うん!今日はありがとう。私、もう少し頑張ってみる」
「君の走り、楽しみにしてるね!いつか一緒に走ろう!」
そう言って微笑み、彼女は走り去っていく。
彼女は次の舞台は、国際G1レースだ。本来私の悩みなど相手にしている暇はないはずなのに。
遠ざかっていく背中を見ながら、私は、幼い頃の自分の走りを必死に思い出そうとしていた。
京阪杯当日。
パドックから地下道を抜けると、そこにはコースを見つめる多くの観衆がいた。
多くの視線を感じ、脚がすくむ。周囲には気迫に満ちたウマ娘たちがいる。
ぐるぐると頭の中が回る感覚がする。落ち着かない。
おろおろと考えていると、視界がくるりと回った。どうやら、また無意識に歩き回り始めていたらしい。
我に返って立ち止まったときに、ふとカナロアの言葉を思い出した。
小さいときのようにくるくると回ってみれば、何かあの時の感覚を思い出せるのではないか。
そう思いついたとたん、私の視界は再び回り始めた。
視界が回る度に、頭の中が軽くなっていく。
回る、回る、回る。
まるで、自分以外何も存在しないかのように。
回る、回る、回る……
同じレースに出走するウマ娘に声を掛けられ、我に返る。
私はゲートの前に立っていた。
いつの間にか回るのをやめ、走り出していたらしい。
「うん、大丈夫。それどころか、いつもより……」
気持ちが軽い。周りの目も、他の子からのプレッシャーも気にならない。
早く走りたくてウズウズしている。こんな気持ちになったのはいつぶりだろうか。
ゴール板が、憧れのあの人が、海の向こうの彼女の背中が。今の自分には、ひどく近くに感じた。