「はぁ」
別に出掛ける予定があったわけでもないのに、厚かましくも溜息をついてみる。雨の日だろうと晴れていようと、出不精な自分のやることは大して変わらないのに。
宿題をやろうとしていた子供が、親から同じことを言われてやる気をなくすことに似ているかもしれない。やるのは別に構わないが、何かに強制された結果としてというのは癪に障るという、子供じみたつまらない意地に。
「…仕事するか」
ひとしきり臍を曲げてみても、結局やることは同じという点もそれに近い。家の中に無聊を慰めるための娯楽のひとつもないことを自覚して少し情けない思いになるが、明日の自分や来週の自分が楽になるためと思えば、早めに仕事に手を付けておく自分のことは幾分か褒めてやれるような気がした。
「…?」
独り暮らしの男の家に来客は早々あるものではない。宅配便もボックスに置いてもらうことにしているから、本当に一瞬何の音か思い出せなくなりかけていたが、確かにそのチャイムは自分の家のものだった。
「はーい」
急かすように続け様に鳴る音を遮るように、玄関の方へと駆けてゆく。そのときの心持ちは作業を中断された苛立ちが半分、心当たりのない来客への不安が半分といったところだっただろうか。
「や、トレーナー」
ドアを開けた瞬間、それらは全て驚きに変わってしまったけれど。
「ありがと。ごめんね?近かったからさ」
「いいって。風邪引くなよ、お風呂も沸かすから」
突然の来客で俄に騒がしくなった部屋を突っ切って、洗ってあるバスタオルを探して浴槽に湯を張る。元々今日は風呂を沸かすつもりだったので、前もって風呂場を洗っておいたのは我ながらラッキーだった。
「〜♪」
シャワーの水音に混じって、楽しそうな歌声が聞こえてくる。それを横目に濡れた服を仕分けて、ネットに入れて洗濯機の中へ。
下着は流石に自分でやってもらったが、時間も惜しいので残りの服の面倒はこちらで見ることにした。普段はそれほど注意を払わないが、彼女の爽やかに整えられた服が自分の不始末で傷むのは忍びないので、きっちりと一つずつ仕分けてゆく。
「どうするかな、このあと」
揺れる洗濯機の中身を見つめながら、単調な予定がすっかり吹き飛んでしまった休日の時間を思う。
彼女がいるなら、退屈している暇など到底ないに違いない。
「えー、今いいとこなのに」
風呂から上がった彼女は、適当に見繕った部屋着を着て、我が家のようにソファに横たわっていた。そのことも、どこから見つけてきたのか知れない学生時代のアルバムを興味深そうに見ていることも咎めるつもりはないが、濡れたままではせっかく温まった体がまた冷える。
「じゃあ、きみが乾かしてよ」
一度何かに熱中すると梃子でも動かない彼女をどう動かしたものかと思案していたら、彼女の方からとんでもない提案が飛んできた。
「だめ?」
「だめ、というか…そっちはいいのか?」
「いいよ。別に普段から特別なことしてるわけじゃないし。
それに…なんかきみはそういうの上手そう」
彼女の前で髪をセットした覚えは少なくともないのだが、妙に確信めいた物言いの彼女にそこまで言われてしまえばもう逃げ場はない。
「…あんまり期待はしないように」
「ぁは、それは無理じゃない?だってもう楽しみだもん」
ただ髪を乾かすだけなのに異様な緊張を覚える自分と、ただ髪を乾かすだけなのにひどく楽しげな彼女は、滑稽なくらい対照的だったに違いない。
「うん…そう。いいよ」
始める前から気をつけようとは思っていたが、ひとたび指を通せば自分のそれとはあまりに違う感触に、初めは嫌でも手付きが慎重になった。真っ直ぐ整えられた髪型ではないはずなのに、一本一本の髪の毛が全く引っ掛からずにするりと指から流れていくという感覚は、セットしていることを少し忘れて無意味に触れていたくなるほど心地良い。素人の自分がいきなりこれほどの上等な髪に触れるのは荷が勝ちすぎているとはわかっているが、撫でるように髪を整えてやると嬉しそうにする彼女を見ていると、自然とそのうち自分も緊張を忘れて楽しくなってしまっていた。
「美容室に行くとすぐ寝ちゃうんだよね。気持ちよくてさ」
「オーダーはどうするんだ?」
「あんまりしたことないや。動きやすくしてほしいけど、あとは適当でいいよって」
世の女性はたいそう嫉妬するだろうが、それも彼女らしいと思う。
「えー?」
「だってさ、こんな綺麗な髪をあとは任せるって言われたらどうしたらいいかわからなくなるだろ、ふつうは」
「そう?」
「そうだよ。だって俺が今そうだから」
「あー…そういえば終わったあとはいっつもいい汗かいてるかも、あの子」
親しみの籠ったその呼び方には、親密さと信頼が滲み出ていた。
「でも、やりきったって顔してる?」
「そうだね。そんな顔してた」
飾らない、遠慮もしない彼女に付き合うのは中々骨が折れるだろう。けれど、そんな彼女だからこそ、掛け値なしに自分を信じてくれているのが伝わってくる。彼女からの親愛という報酬を一度味わってしまうと、労苦も上質なスパイスに変わってくる。
その美容師の彼女のように。
「別に俺だって普段から気を遣ってるわけじゃないぞ。そういうの得意な奴はもっと──」
「そうじゃなくてさ。アタシのしてほしいこと、なんとなくわかってくれるから、ってこと」
きっと、今の自分のように。
「あは、やっぱり大きい」
「ごめんな。これしかなくてさ」
できるだけ彼女が着ても違和感が出ないようにサイズや柄を選んだつもりだったが、シャツの胴の部分で腰が隠れてしまったのを見ると、やはり無理があったらしい。けれど彼女はそんなことを気にする様子もなく、楽しそうに余った裾をやりくりしていた。
「大丈夫。ほら、こうして…できた」
余りが多かったことが却って幸いしたらしい。はみ出た部分を寄せて作った結び目は、大きく可愛らしいサイズの飾りになってくれた。同じように脚の部分が余って中途半端に膝にかかっていた半ズボンも、丈を上げてやれば彼女のすらりと長く伸びた脚をうまく引き立ててくれる。
「見違えたよ」
「ありがと。
でも、今度はちゃんとしたの着たいからさ。ここに着替え置いてもいい?」
何か聞き捨てならない言葉が聞こえた気がする。
「おい、また来るつもりか?」
「だめ?ここ、居心地いいんだもん」
「だめじゃないが…家で仕事とかするかもよ?」
「しらなーい。それよりアタシと遊んでよ」
彼女を捕まえようとした言葉は、猫のようにするりとソファを抜け出した彼女を捉え損なって、部屋の中に転がって消えた。
部屋を出た彼女を探して廊下に出ると、自室のドアが開いていることに気づいた。
「いるのか?」
まだ雨音が鳴り止まない窓際に、彼女は何も言わずに佇んでいた。見慣れたはずの自分の部屋も、彼女がいるだけでどこか神秘的にさえ思えてしまう。
「いいこと教えてあげよっか」
ベッドに腰掛けた彼女の隣に、吸い寄せられるように座り込む。子供のようにその瞳を見つめていると、彼女は嬉しそうにくすくすと笑った。
「雨の日も楽しくなる方法があるよ」
「濡れるのは勘弁してくれ」
「大丈夫だって」
悪戯っぽく笑う彼女の言葉は、信じられなくてもそれでいいと思ってしまうような魅力がある。たとえ一時の戯れでも、彼女が楽しいなら聞いてみたいとつい考えてしまうような。
「今日は何するつもりだったの?」
「仕事だよ、ふつうに」
「ふーん…えいっ」
「これなら濡れなくてもいいよね」
「…そうだな」
いきなりしなだれかかってきたことへの抗議は、すっかり忘れ去られてしまった。彼女が膝の上で落ち着いていると、なぜかそれが自然のことだったかのように安心してしまう自分がいた。
「雨の日の楽しみ方はね、この音に耳を澄ませること。仕事も責任も全部忘れて、優しい音に浸りながら、したいことをゆっくりしていけばいいよ」
仰向けになった彼女と目が合う。にこりと微笑んだ彼女の指が頬をなぞると、擽ったさで漏れた笑い声が彼女のそれと重なった。
ころころと笑う彼女は、欲しいものを漸く手に入れた子供のように、ひどく愉しげだった。
「こうしてる間はさ、きみのことひとりじめできるね。仕事にも、何にも渡さない。
今なら好きなだけ、飽きるまで一緒にいられる。
それが、アタシの今したいことだよ」
もうすっかり、彼女の思うがままになってしまう。
「…そっか。そうだな。
じゃあもうちょっと、ゆっくりしようかな」
不真面目になったものだ、と思う。せっかく休日を返上して、彼女のために働こうとしていたというのに。
こうしていると、どんどん彼女と一緒にいたくなってしまう。
「〜♪」
楽しそうに揺れる彼女の頭をそっと撫でるときには、仕事のことなどもうすっかり忘れていた。
全く、一から十まで全て彼女の思い通りだ。
「コーヒー要るか?」
「ミルクと砂糖も欲しいな」
ありったけ、ココアでもいいかも、と言う彼女の声は、既に心地よさそうに揺れていた。
「眠くならないか?」
「いいじゃん。このまま寝ちゃおう」
起きて彼女と話していたいとも思うけれど、今はもう少しだけ眠っていてほしい。
「幸せ、だな。きっと」
こんなことを漏らしても、きっと彼女には聞こえないから。
「おー。晴れたね」
一応、雨宿りがきっかけでこの不思議な時間は始まったのだけれど、雨が止んでも帰ろうという気は彼女には全く無いらしい。
「くつろいでくれとは言ったけど」
「んー…だめ?」
するりと腕の中に入ってきたのと同じようにするりとベランダから抜け出して、ベッドの上に寝転んだシービーは、もう夕食も済ませて夜着に着替えてしまっている。手持ち無沙汰なのかクッションを抱えて寝転がる姿は、悪戯好きな猫を想起させた。
「だめじゃないけど」
この台詞を言うのは、一体何度目になるのだろう。呆れるほど突飛だけれど、どうしようもなく魅力的な彼女の提案に、もうすっかり自分は逆らえなくなっていた。
「このまま星空を一緒に見てるのもいいけど、ごはん食べたらもう眠くなっちゃって。
それに、ここで寝たらすごい気持ちよさそうなんだもん」
「わかったわかった」
やはりどうやっても、自分は彼女に敵わないらしい。根負けして部屋を出ようとすると、その彼女から引き止められた。
「どこ行くの」
「どこって…ソファーで寝るよ」
「だめだよ。風邪引くよ?」
「いや、だからって…まさか」
なんともまぁ、良識的で──無意味な抵抗だったろうか。
いくらなんでも、と何度言おうと、彼女が一度決めたことを覆すことはできないことは、とうの昔にわかっていたというのに。
「…やっぱりソファーで」
「だめ。そしたらきみのとこに行くから。
どうせなら、ちゃんとベッドで寝たいでしょ?
観念しなよ。寝相はいい方だからさ」
「だめ──じゃないよね」
少女のようなあどけなさで、大人らしい甘え方をしてくるのだから。
そんな彼女の姿に惚れてそばにいるなら、それに抗えるはずがない。
ベッドサイドの仄かな灯りに照らされて、彼女の整った顔立ちの輪郭が一層際立つ。他のものが見えなくなる分、夜の闇は隣にいる彼女の全てを鋭敏に感じさせてくれる。
ほんの少し彼女との距離が縮まっただけでも、それがはっきりとわかってしまう。
「何でそんなに俺と寝たいんだ」
「話してたら、そばにいたくなっちゃった」
彼女のように、心の内をありのままに言葉にすることは、自分にはできそうにない。なのに彼女の言葉は、まるで自分の心をそのまま掘り出したように、どうしようもなく沁み渡って。
「…だってさ。ぽかぽかするんだもん。
きみといると、すごく」
優しい夜の闇は、全てを包んで隠してくれるから。
「大きいね。きみの手。
大きくて、安心する」
ほんの少しでも一緒にいたくて。あなたのことが愛おしくて。
そのすぐ近くにいられることが、なによりも嬉しい。
「ちょっと、わかるかもな。
目を瞑ってもそこにいるってわかると、なんかすごくほっとする」
伝えたい。彼女のように、美しくは表せないけれど。
自分の想いがあなたに届く。あなたの想いが伝わってくる。
それだけでこんなにも幸せになれるのなら、その幸せを、あなたにも分けてあげたい。
「寝ちゃうまで、こうしてよう?」
「…ああ。俺も、君がいるって感じていたい」
アタシの進む道がきみの夢になって、きみの中で言葉になる。
そんなきみの言葉を聞くと、なんかすごくうれしいんだ。違う世界が、見えてくるみたい」
「本当か?」
「本当だよ。
だから、きみと一緒にいる時間が好き」
少しだけ、心臓がうるさくなる。繋いだ手に籠った熱が、彼女の想いを伝えてくるようで。
「夢の中でも、きみと話せたらいいのに」
自分の想いも、彼女に伝わればいいのに。
けれど、はっきりと言葉にする勇気はまだ持てなくて。だから彼女と同じように、溢れそうになる熱を彼女に返してやる。
「子供のころ、こうやって大事なものを抱きしめながら寝てたよ。
そしたら、夢の中にも出てきてくれた」
…夢で、逢えるといいな」
夢の中の自分は、もう少し勇気があるだろうか。
もしそうなら、伝えてほしい。
──どうしようもないくらいに、君が好き。
シービーに休日家凸されたいだけの人生だった
なんならシービーの家の合鍵と交換したりもしちゃう
自分たちの結婚式なのに花嫁花婿そろって抜け出して笑い合うふたり
けどずっと一緒にいる
布団の中でくっつきながらだらだらするのもよい
そんな女
でも雨を見て楽しむのは隣に誰かがいてくれるからだと思う
でもきっとシービーは外で楽しんでるんだろうなと思ったらチャイムが鳴るんだよね
お互い相手を縛るべきじゃないって言う思い込みも強いからこのコンビ