何度目かの寝返りを打っても、身体が落ち着く場所は見つからなかった。目を閉じても眠気は訪れず、瞼の裏にとりとめもない光景が浮かんで却って目が冴えてしまう。
「…何か飲むか」
自分の家ではない場所でだらしのない行為に浸るのは少しだけ気が引けるが、もう彼女とは遠慮し合う仲でもない。冷蔵庫を開けるくらいは構わないだろう。
眠れずに消耗した神経には、ただの水でもよく染み渡る。目が冴えすぎていたために体の中にあった掴みどころのない疲れが少しだけ和らぐと、せっかく夜中に起きているのだから何か特別なことがしたいと思うようになった。
冷蔵庫の中でめぼしいものは水とちょっとした菓子程度しかなさそうだが、一夜の気まぐれを満たすには十分だろう。
カーテンを少しだけ開けると、空の天辺には綺麗に丸く満ちた月が輝いていた。秋の夜空は雲が多いけれど、今夜はまるであつらえたようにすっきりと晴れている。
なんだか自分の思い付きが応援されているような気分になって、柄にもなく水を満たした杯を月に掲げて、その姿を映し取った。こういうことはいつもなら彼女の領分だろうが、たまには自分も一端の風流人を気取ってみるのも悪くはないだろう。
水面に月を映したままぐいと一気に呑み干すと、ただの水に少しだけ甘美な味がついた気がした。
背中から唐突に問を投げかけられても、今はそれほど驚くには値しないだろう。この家の主は彼女であり、その彼女がいつどこで自分と話したいと思っても、断る理由はないのだから。
「満月はちょっと甘いな」
「そっか。ふふ。
じゃあ、星は少ししょっぱいといいね」
「眠れないの?」
隣に腰を落ち着けた彼女から唐突にそう訊かれて、率直に首を縦に振った。
「遊び過ぎたからかな。やけに目が冴えて」
それを聞いた彼女は、遠慮する素振りも見せずにくすくすと笑った。昼間さんざんこちらを連れ回したのは他でもない彼女だったのだが、彼女にとってはそれも楽しいらしい。
それは自分も同じだけれど、揶揄われたままというのは少し面白くない。
「笑うなよ。少し付き合ってくれ。シービーのおかげで寝れない」
「いいよ。ちょっと話そうか。
眠くなったら、そのままで」
いつだって彼女に夢中なことを、はっきりと実感させられたような気がして。
あのときは彼女が抱きついて来る度に心臓がうるさくなって眠れなかったけれど、今は胸の高鳴りよりも、優しさで満たされてゆく気がする。肩口に乗った心地よい重みと温かさが身体に染み込んで、今度は心地良い微睡みが湧き上がってきた。
彼女に身体を預けられながらゆるゆると抱き合って、お互いの温度が染み渡ってゆくのを感じる。今の自分たちの関係をそのまま表したようなこんな夜が、ひどく好きだった。
アタシって重いかな?」
今日は何食べる?と同じくらいの軽い口調でその言葉を発するのは、きっと彼女くらいのものだろう。胸板を指でゆっくりとくすぐりながら、彼女はやはり微笑んだまま、その答えをゆっくりと待っていた。
「ちょっとね」
肩で感じる彼女の身体も、日々の言葉に載せる想いも、当てはまる言葉は同じだと思った。
ほんの少しだけ重い。彼女がくれるものの質量を表すなら、そういう言葉が相応しいだろう。
「ふーん…」
むすりと少し頬を膨らませた彼女に、つんつんと頬をつつかれた。怒っていないのがわかる以上、彼女の気が済むまで受けてやるのが男の器量というものなのかもしれないけれど、続きを話させてくれないのは少し困る。
「でも、心地いい重さだよ。シービーがここにいるんだって、わかるから」
「…そっか。ふふっ。
重くても幸せって思えるんだね。きみは」
自分の中で見つけた答えが彼女にはよほど面白かったらしく、寝転んだまま身体を折って楽しそうにもぞもぞと動いている彼女を、ずっと見つめていた。そんな微笑ましい姿の彼女から、次は何を求められるかなんて、思いもしないで。
「…じゃあさ、今日はきみが来てよ。
アタシのこと、抱きしめてほしいな」
ぽふり、と横に寝転んだ彼女が、手を広げて待っている。愛するひとが自分の愛を受け止めるためにただ一心に待っているのだから、少しでも待たせないようにしなければいけないのはわかっているけれど、どうも踏ん切りがつかない。
彼女を支えるために自分はここにいる。それはこれからも変わらないだろう。甘えられることは何度もあったし、それが幸せだった。
だからこそ彼女に甘えるというのは、その枠組みを逸脱するような行為に思えてならない。
でも。
「あ…ふふっ」
どんな形でもいいから君と愛し合いたい気持ちは、どうしても抑えられないみたいだ。
「きみは優しいね。今も重くならないようにしてくれてる」
よじ登るように指が二の腕を這って、背中にくいと回される。それを支えにして身体を持ち上げた彼女の唇が、耳元に触れた。
「でも、今はだめ。
今はきみの重さを感じたい」
彼女の腕に引かれるままに、支えを失った身体が彼女に向かって倒れ込む。自分の重さで彼女とぴったりとくっついて、さっきよりもずっとはっきりと、彼女の温度がわかる。
「いいね。あったかい」
遠慮して触れられなかったときには、彼女がこんなにも温かくて心地良いだなんて、わからなかった。自分の重みがあるから、彼女の温かさも、柔らかさも、優しさも、全部感じる。
「寝ちゃおう?このまま」
頷く以外に、できることはなかった。
夜が明けるまでずっと、彼女と一緒にいたかった。
彼女に身を委ねたまましばらくそうしていると、背中に回された腕に力が籠ると同時に、拗ねた声音が飛んできた。
「寝づらいだろ?シービーが」
彼女と寝具の間に腕を入れるのが憚られたからそうしていたのだが、それは彼女のお気に召さなかったらしい。けれど、その答を聞いた彼女は気を悪くするでもなく、また優しく微笑んだまま、そっと囁いた。
「きみの言ってたこと、わかったよ。きみは重いけど、この重さは好き。
心地いい重さもあるって、きみが教えちゃったんだよ。
だから、きみもそうなっちゃえ」
「やっぱり不自由じゃないか?こういうの」
茶化すように訊いた問の答は、彼女らしくどこまでも爽やかだった。
「そうかもね。でも、幸せな不自由もあるって、きみといてわかったから。それに、アタシの自由はなくなってないよ。
きみに預かってもらってるから」
彼女の大切な宝物を預かって、そうしなければ味わえない幸せを届ける。
何とも大変で、何とも幸せな仕事を引き受けてしまったものだ。
「じゃあ、大事にしなきゃな。
シービーの一番大切なものだから」
自分の幸せと、彼女の幸せ。
それが同じかたちをしていることが、こんなにも嬉しいのだから。
眠れない夜にシービーと一緒にお互いの重さとぬくもりを感じていたいだけの人生だった
これから寒くなるから足とかくっつけて温め合っててほしい
書ける気がしないよ…
今回も良かった