トレーナー室での不意の一言に、ぎくっとした
怪訝な顔をしてすんすんと鼻を鳴らすナイスネイチャに、一瞬返す言葉がなくて
少し躊躇って素直に言葉を返すことにした
「ごめん。ネイチャを担当する少し前まで吸ってたんだ」
「でも、今まで臭いとかしなかったよね?今、シャツから臭いがしてん?ってなっただけなんだけど」
そう言われて、もう一歩追い詰められた気がする
いや、本当に何も悪いことなんてしてないんだけど。なんか、こう。気分的に
「………昨日、上役との会議の後。色々むしゃくしゃして、久々に吸っちゃったんだ。ごめん」
七つの星が描かれたそのパッケージ。それを見て、ネイチャは困ったようにして
「えっと……別に責めてるわけじゃないんだけど」
にゃはは、と笑う彼女。しかし、謎の罪悪感は消えず。言い訳がましいような言葉を口にしてしまう
「もともと結構吸ってたんだけど、トレセン勤務になった時に少しずつ減らして……ネイチャを担当することになった時にきっぱりやめたんだ」
「なんで?」
「そりゃ……嫌だろ、自分の担当トレーナーが煙草臭いとか」
んー、と。口元に指をあてて考え込んだネイチャだったが
「アタシ、特にそういうの平気だよ?もともと実家に来るお客さんたちも結構吸ってたし」
だけど、それとは話が別だろう
「それに、若い女の子を指導する立場で健康に悪いものをずっと吸い続けてるのもなって………」
「あー。まぁ、健康的にはよくは無いよね。その点だと、やめて正解かも」
「それに、慣れてるって言っても単純に臭いだろ。ウマ娘は鼻がいいんだから」
実際、個人差はあるがウマ娘は嗅覚聴覚その他が敏感な子が多い
煙草の臭いは多種多様、といっても非喫煙者にとっては等しく異臭だろうし。それに自分が吸っていたのは比較的臭いが………その、個性的な銘柄だ
あの人のトレーナー煙草臭い、なんて言われたらネイチャがかわいそうだ。そもそも教育にもよろしくないものだし
「とにかく、もう吸わないから安心してくれ。残りも処分するから」
「いや、まぁ……別にこっちはいいんだけど、それはそれでもったいなくない?」
「まぁそうだけど。会議の後の酒でむしゃくしゃして買って来ただけだから」
と、ネイチャはそれを聞いてこっちに歩み寄ってきて………
「んー。どことなくチョコレートにも似てるような………甘い香り?」
「ちょ、嗅ぐな嗅ぐな」
「でも、嫌な臭いじゃないな。これで本当に臭いものだったらアレだけど………」
アレって何だよ、怖いって
「むしろ、なんかいい香り……んー………」
「ちょ、ネイチャ。ネイチャ。ネイチャさん?」
段々と、距離が近くなってくる
席を立って離れようかとも思ったけど、あんまり露骨に距離をとっても傷つけてしまうか
すんすんと、鼻を鳴らしながら近寄ってくるネイチャにこっちは少し身を引くだけしかできない
「ネイチャー?ネイチャさーん?」
あ、これ駄目だ。無意識にやってる
尻尾をゆらゆらと揺らしながら、どんどん距離を詰めてくる。完全に臭いに意識が集中してて、こっちの声は届いてない
そしてその距離は……もうすぐくっつくというところまで縮まって
(いかん、これは駄目だ)
そう思ったところで。そこで、はっと
ネイチャは目を見開いて、そのまま無言で立ち尽くして
耳がへにゃっと垂れる。尻尾がピーンと立つ
顔がこれほどまでにというほど紅潮して………ネイチャは、頭を抱えた
「………うにゃああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
「ごめん!!!ごめんごめんごめん!!!!!!今の忘れて!!!!お願いだから忘れてええええええええええ!!!!!!!!!」
「いや、その。無意識だったなら仕方ないというか………」
「うにゃああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」
頭を抱えたまま丸まって、完全防御態勢。なんだっけこれ。そうだ、護身完成だっけ
ネイチャはブツブツと何かを呟くだけの球体になってしまった。そりゃまあ、我に帰ったらありゃ恥ずかしいかもしれないけど
でも、ぶっちゃけ。恥ずかしかったのはこっちも同じなんですよネイチャさん、と
うら若き乙女にくんすか臭い嗅がれてて、そりゃ恥ずかしくない訳ないというか
(またうにゃるから絶対言わないけど)
「ほら、顔をあげて」
「ごめん………こんなはしたないウマ娘でゴメン………ていうか普通にセクハラだったよね。ごめん………」
謝罪合戦が始まってしまった。これはどっちかが退かないといつまでも終わらない、経験則がそう告げている
仕方ない、あまり使いたくない……というか使うべきではない鬼札を切る時が来たか
ここで調子を崩されてレースに影響でも出たらたまったもんじゃない。意を決して、その言葉を口に出す
「ほ、ほら。気晴らしに、なんでも好きなことしよう。ネイチャがしたいこと、なんでもいいから」
やらかした。そう思ったのは、言い切った直後の事だった
ぴくんっと。へにょっていた耳が立ち上がり、震えていた体が止まる
今、なんて言った?言外に、その姿勢は語っていた
」
「トレーナーさん」
すくっと立ち上がったネイチャが、どこか怖かった
なんか、目が据わってるというか。覚悟を決めた感じというか
逃がさない。幻聴だろうけど、そう言われた気がして
「本当に、できることならなんでもいいんだよね?」
「あ、ああ。俺にできることなら、なんでも」
俺はただ、今までにない種類の鋭い眼光を向けてくるネイチャに怯え、すくむしかなかった
「じゃあ、さ」
これは、見間違えだったのかはわからないけど
「頼みが、あるんだ」
ネイチャはその時、舌なめずりをした気がした
「………………………」
「〜♪」
なんでこんなことになったんだろうか。不健康な煙を吸い込みながら、遠い目で思い返した
事務的な内装のトレーナー室を離れ、生活感漂う自室へと場を移して
畳に座り込んで窓を開け、煙草の煙をふかしている自分の背中に……寄りかかるようにして、ネイチャの姿が
「煙、かかってないよな?」
「大丈夫。しっかり窓に流れてるよ」
「本当かよ……髪に臭いついても知らないぞ」
ネイチャからの要求は極めてシンプルなものだった
曰く、『煙草吸ってる所見せて』という。およそうら若き乙女の気晴らしの願いとは思えない物だったけど
さっき一本目を吸った時は、その様子をまるで新しく飼ったペットの子犬でも眺めるかのようにじっと見られて
思わず赤面しそうになったけど、今の状況に比べたらまだましだったのだろう
「………臭くない?」
「へーきへーき。どうぞ、お構いなく〜」
自分の背中に寄りかかるようにして座ったネイチャは、先ほどから鼻歌交じりで
見たい、と言ってたのに見なくていいのか。というのは言わないでおくけど
なんていうか、その………なにがと言われたら返答に困るけど、凄く、恥ずかしい
「なんだその具体的な数字」
「なんでもなーい。うん、なんでもなーい」
変に煙草の臭いにでも興味持たれたら困るんだけどなぁ………と思いつつ
ネイチャなら変な事はしないだろうという信頼を基にして、それを信じて煙草の煙を吸い込む
そろそろ二本目も終わるけど、三本目をリクエストされる。そんな予感と共に
「一応言っておくけど、煙草の臭いが好きなんじゃないよ?」
「じゃあなんだよ」
「ひみつ」
そう言って笑ったネイチャに、聞き返す言葉は持っていなかった
シャツの臭いを嗅がれたような気がするけど、きっと気のせいだろう
さて、どうしたものか。たづなさん辺りに怒られなきゃいいなぁ、と思いつつ、二本目の煙草を携帯灰皿に押し付ける
「わんもあー」
「マジかー………」
スンスンと、鼻を鳴らすような気配を感じながら
新しい煙草を、箱からひねり出した
今回もいいものをありがとう……
ありがとう
ネタが思いついたらまた書くよ
シンボリルドルフ私の一押しです
喫煙習慣を放置することもしなさそうな皇帝陛下はどうリアクションするのがらしいのか俺にはイメージできない