――――――
ゼファーを追いかけて寮の前まで来た俺は、摩訶不思議なモノを目撃してしまった。声を掛ける間もなくゼファーが足早に寮の中に入ってしまいどうしたものかと考えていると、寮の扉がひとりでに開いたのだ。
すた、すた、すた。
出てくるものは誰も居ない。姿が見えないのだからその筈であった……のだが、よく見ると運動靴だけが、“靴"だけが、勝手に動いて扉から出てきたのだ。
まるでそこに誰かがいるかのように、靴だけがひとりでに歩いている。目を疑うような光景であった。
「……ふふ、風が……心地良い……♪」
どこからともなく聴き馴染みのある声が聴こえる。その声は確かにヤマニンゼファーのもので、その声の聴こえた方角にはひとりでに歩く靴がいた。
「……もしかして、ゼファーか……?」
ゆっくりと歩いている靴に……その上の、見えないナニカに向かって俺はそう尋ねる。
「……まあ、突風ですね……よく私だとお分かりで……」
「……君の声が、聴こえたから」
「まあ、ふふふ……♪ トレーナーさんには全てお見通しのようですね」
姿こそ見えないが、その声色はどこか嬉しそうな色であった。
「……しかしまた……なんで、透明になってるんだ……? もしかして、さっきアグネスタキオンと取引してた薬がこれなのか……?」
「ええ……タキオンさんに透明になる薬をいただきまして」
「なんでまた……そんなものを……?」
何が原因で透明になったのかは分かった。しかしなぜ透明になろうとしたのか、その動機が分からない……。
「…………風に」
「風に、なりたかったのです……吹きすさぶ、あの風のように」
……要領を得ない答えではあるが、彼女らしい答えでもあった。
「……風は、姿を見せません。しかし、確かにそこに在る……私たちは目ではなく、身体で、耳で、心で、風を感じるのです」
……なるほど、確かに彼女の言う通り、風をそれ自体を見ることはできない。揺れる木々や回る風見鶏、風に動かされた者たちを見て、俺たちはそこに風を感じている。
目には見えないがそこに居る、そんな存在に。透明人間になることでそれを果たしたということなのだろう。
「……とりあえず、透明になった理由は分かった。ありがとうゼファー。……でも、これからどうするんだ? そろそろトレーニングの時間だけれど……」
そう、俺が彼女を探していたのはトレーニング時間が迫っていたからだ。ヤマニンゼファーは本来ならこれからトレーニングをする予定であった。
「ええ……もちろん、風は予報の通りに。……トレーニングをしましょうトレーナーさん」
「……大丈夫なのか? 透明なままで」
「ええ、心配はありません……姿は見えなくても、いつも通りに……それに――」
彼女が言葉を止めた瞬間、ふわりと風が吹く。
「――真の風と、なりたいですから」
そう言って、透明になったヤマニンゼファーは、確かな足取りでコースへと向かう。“真の風"になりたい、その言葉の意味を俺に刻み付けるように。
――――――
ビュウ――!
一陣の風がコース場を切る。
透明になったヤマニンゼファーが。その姿こそ見えないが、大地を蹴りあげながら確かに芝生を駆けていた。
芝生の上の空気を、透明になったゼファーが押し出して切り裂く。疾風の如きその姿、まさにそれは一陣の風であった。
「……ふふ、ふふふっ……♪ あは、あははは♪ ええ、感じますっ……これが、これが真の風……! 私は今、真の風となって大地を駆けている!」
ヤマニンゼファーが笑う。風のように。突風のように。
姿を消し空を裂き、正真正銘風と一体となったヤマニンゼファーの楽しげな笑い声が、コースに吹きすさぶ。
「ああ……なんと、なんと素晴らしい……! ふふっ♪ あははは♪ 感じます、全身で……! 私の持てる全てで! 風を! 私こそが真の風!」
いつまでも、いつまでも。風となったことを楽しみ尽くすように、ヤマニンゼファーは走り続けた。一周、二周、三周とコースを走り、そうしてようやく、その嵐は柔らかな風となった。
「はぁ……はぁ……。……ふふっ、ふふふ……♪」
「お疲れ、ゼファー」
風の止んだ場所へ向かい声を掛ける。
「ああ……トレーナーさん……♪ ふふ、ふふふ……はぁ……ふふっ♪」
「ふふっ……とても……とても、心が躍りました……♪ これが、風になる、ということなのですね……!」
「良かったな、ゼファー」
満足そうな彼女に声をかけつつタオルを手渡す。
「ふふ、ありがとうございますトレーナーさん……♪」
タオルをしっかりと受け取ったのだろう。透明になったヤマニンゼファーが持ったタオルは宙に浮いていて、ひとりでに動き出す。
どこか不可思議な光景に、本当に透明人間になったのだなと今更思う。
「ふぅ……ふふっ、夢中で駆けていたので……少々玉汗が身体を濡らしてしまいましたね……」
そう言って、タオルは顔のある位置を拭う。
ひとりでに動くタオルという不思議な光景を眺めながら、そこに確かに彼女が居るのだと思う。
「ああ……身体が火照って……ふふ、まだ夢見心地です……」
そう言って、タオルは顔のある場所から首筋の方へと向かう。そうしてそのまま、肩、腕……胸元、腹部……腰へ……脚へ……。
「…………っ!!」
ばっと、思わず顔を背ける。
「…………い、いや……」
宙に浮くタオルが身体を順に拭うその光景が、見えない筈のヤマニンゼファーの身体の輪郭を浮かび上がらせるようで……。俺は全身を拭うタオルを見て、彼女の若々しくも女性的なボディラインを幻視してしまった。
そんな、身体の隅々までしっかりと拭う彼女のタオルの行方から目を背けてしまったが、彼女はそれに気付いていないようだ……。
その無防備さに頭を抱えながらも、そんな隅々まで汗を拭う必要があったのか……? と軽い疑問が浮かびながら、改めて彼女の方へと向き直る。
「……ふぅ、ありがとうございます……お陰様で、すっきりと瑞風が吹いたような気分になりました」
ゼファーがこちらに話しかける。トト、と靴が歩き出しタオルが近づく。どうやらタオルを返そうとしてるらしい。
ならば、と手を伸ばしたその時、ビュウと強い風が辺りに吹いた。
「きゃっ」
乱れた靴の歩みと風で靡くタオルケット。それに彼女の小さな悲鳴に反応して、身体は自然と彼女が転ばないようにと前に出る。
むにゅり。
「!?」
「ひゃっ……///」
再び訪れた小さな悲鳴にさっと手を引く。
「す、すまん……!」
何に触れたのかは、透明故に分からないが、しかし……その柔らかな感触と彼女の悲鳴に冷や汗を流しながら咄嗟に謝罪する。
「……い、いえ……その……ありがとう、ございます……」
ヤマニンゼファーは少しか細い声で言う。
「………………」「………………」
……気まずい沈黙。互いに今のは事故であったと、忘れよう、と。無言でそう了解を得るように、時間だけが過ぎていく。
「……その、私は……トレーナーさんから見て、どう、だったでしょうか……?」
「どう、か……」
言ってしまえば、透明になっていたのだから、走りもフォームも何も――トレーナーとしての見解を述べられる要素は何も見えなかったのだが……。
だが、そうではない。ヤマニンゼファーの、彼女のトレーナーである俺から見て、先の彼女は――。
「…………ふふ、そう……ですか……♪ それは……誠に……祥風、ですね……♪」
彼女が柔らかく笑った。見えはしないが、確かに分かる。ヤマニンゼファーは風のように柔らかく笑ったのだった。
――――――
「……なあ、ゼファーちょっと……聞いてもいいか?」
「はい、なんでしょう……?」
帰り道を二人並んで歩きながら、隣の透明なゼファーに問いかける。
それは、とある疑問である。
「……なあ、ゼファー。……なんで、靴だけは透明じゃないんだ?」
ぴたり。ヤマニンゼファーの運動靴が歩みを止める。透明になった彼女の、唯一その居場所を教えてくれるその運動靴。ひとりでに歩く彼女の靴が、何故透明にならずそのままなのか。ずっと疑問に思っていた。
「……そう、ですね……やはり、靴を履いていなければ真の風に至るまで走ることはできませんので……蹄鉄があってこそ、私たちウマ娘は全力の走りが出せるというもの……やはり、靴は履いているべきだと、そう思いましたので……」
彼女は答える。
噛み合わない問いと答え。しかし、俺はそれをどこか予見していたようで……。
「……じゃあ、最後にもう一つだけ、質問していいか……?」
嫌な予感に、想像に、思考が傾きながらも、絞り出すように、問いかける……。
「…………なあ、ゼファー。……お前いま、服、ちゃんと着てるよな……?」
「……………………」
「……ふふっ、今日は良い風が吹きました。また明日も、ともに良き風を感じましょう……♪」
……彼女は俺の問いかけに答えることはせず、ただそう言って駆け、何処かへと消えてしまった……。
「………………はぁ……」
そうして残された俺は、彼女の困った癖に、あり得るであろうその可能性に、重く頭を抱えるのであった……。
風は全身で感じたいよね
おのれ…許さんぞタキオン…!
寮長は物足りなさそうに呟いた
でもゼファーは透明になれたら脱ぐよね