ある朝、鏡の前で溜息を吐いている男がいた。カレンチャンのトレーナーである。
憂鬱な彼の視線は、鏡の中の自分の顔の中でも最も高い位置、頭頂部に注がれていた。
あろうことか彼の髪の毛は頭頂部の周辺が綺麗な円形に刈り取られていた。
「これじゃカッパだよ…うう…」
つい昨日の出来事である。自分の担当ウマ娘であるカレンチャンは、『ツーブロック』という髪型をあまり好きでは無い、との情報を小耳に挟んだ彼は意を決して美容室に足を運んだ。
このヘアースタイル、簡単に説明すると髪の毛の横の部分をバリカンで刈り上げるのだ。カレンチャンのトレーナーにとって最大の不幸は、担当になった美容師が前日に夜更かしをして寝不足であった事。
そんなコンディションでバリカンを扱うものだから、一匹のカッパが誕生してしまった。代金は返してもらえたが、刈り取られてしまった、皿くらいの面積の髪の毛は数日やそこらでは戻ってこない…
カレンチャンからの好感度を抑制するにしてもこれでは人前に頭を出せないではないか。
と言っても普段帽子なんか被らない彼が唯一所持していた帽子は何故か鹿撃ち帽であった。シャーロック・ホームズが被っているやつである。紺色のスーツに対して浮きすぎてコーディネートもクソも無い。
いつもよりかなり早めに家を出た為、誰にも会わずに勤務先の校門をくぐる事ができた。
そんな彼の背後に忍び寄る影があった。アドマイヤベガのトレーナーである。
「おはよう!珍しいな帽子なんてして」
「ああ、おはよう…ちょっと気分転換にね」
「へぇ、似合うじゃないか。これから毎日被ってくればいいのに」
「ん?あれカレンチャンかな」
「えっ」
担当ウマ娘の存在を確認しようと振り向いたホームズの頭に、背後から嘘つき野郎の手が伸びた。
がしっ。
「そんな事だろうと思ったよ」
トレセン学園で同じトレーナーとして顔を突き合わせるうちに、この嘘つき野郎の考える事はカレンチャンのトレーナーにとって想像し易くなっていた。
「いやぁ…ちょっとした出来心で…」
言い終わるより早く、ホームズは駆け出した。スプリンターウマ娘ばりのスタートダッシュである。
朝の戦い以降、二人は数度にわたって帽子の中身を巡って激戦を繰り広げていた。しかし本気になったカレンチャンのトレーナーの瞬発力は凄まじく、一度も帽子の中身を公衆の面前に晒す事は敵わないでいた。
「バカなの?貴方」
担当ウマ娘のアドマイヤベガから心無い罵声が飛ぶ。普段なら心地良いが今は協力者が欲しいところだ。
「頼む!最初はほんの出来心だったんだけど、ここまできたらもう男の意地だ!」
「まるで子供じゃない…嫌よ、私カレンさんにも彼女のトレーナーさんにも嫌われたくないし」
「手伝ってくれたらデートしてあげるからさ」
ピクリ、とアドマイヤベガの耳と尻尾が跳ねた。
「何言ってるの?貴方とデートする事で私に何のメリットが」
「ごめん。そうだよな…こんな趣味の悪い事に担当を巻き込むのは最低だ。ちょっと頭を冷やし…」
「まあどうしてもって言うなら協力してあげるわ」
まず彼女がターゲットに声をかけ注意を引く。
「お願い、私の力じゃその瓶開かなかったのよ」
「君の怪力でも無理だったの?じゃあ俺も無理だと思うけどなぁ…」
「私怪力じゃないわよ」
この隙を狙って彼女のトレーナーが帽子をかぶったターゲットに攻撃を仕掛ける。完璧な作戦だった。ちなみに瓶は接着剤で封印されていた。
しかし二人はカレンチャンのトレーナーが煩悩に打ち勝つために最近筋トレを始めた事を知らなかった。瓶は開いた。勢い余って肘打ちをアドマイヤベガのトレーナーに炸裂させた。
「いたたたた…うーん…なんとか…」
「でも約束は果たしたわよね。成否に限らず、協力したら…デートだったかしら?」
アドマイヤベガの尻尾は流星のようにはためいていた。少し恥ずかしくなった彼女は目を閉じながら喋り出す。
「ちょうど行きたいプラネタリウムのイベントがあって…あ、天体観測でもいいわよ私」
期待を込めまぶたを開いた時には彼女のトレーナーは既にいなくなっていた。
「お兄ちゃん今日はずっと帽子被ってるね」
「う、うん…これ気に入っててさ…」
「ふーん…ところで今日はトレーニング休みだよね?」
カレンチャンはいつになく真剣な表情になり、トレーナーに頼みたいことがある、と言ってきた。
なんでも祖父に挨拶に行くから着いてきてほしい、との事らしい。
以前少し聞いたことがあった。カレンチャンはトレセン学園に入る事を祖父から猛反対されていた、その祖父はとても怖い人物であった、等と。
「悪い人とかではないんだよ!カレンも好きだよ、おじいちゃん…でもちょっと一人じゃ怖くて…」
自分の担当からこんな事を頼まれて断れるトレーナーがいるはずもない。彼はいつもより堂々とした笑顔をカレンチャンに向け、「行こうか」とだけ返事をした。
ギロリとこちらを睨む瞳は力強く、顔に刻まれた皺は奈落のように深い。話には聞いていたが実際に目にすると凄まじい迫力だった。
「えっと…お久しぶりです…お祖父ちゃん…カレンね、話があって…」
「お前と話す事など何も無い」
二人の会話を見ているだけで冷や汗が出てきた。
「カレンね!今すごく頑張ってて…その…えっと…G1って言って、大きな…有名なレースでも勝ったんだよ!ほら、この人がカレンのトレーナーで…」
普段の賢く強いカレンチャンはどこにもいなかった。それほどまでにこの老人は彼女にとって畏怖すべき存在なのだろう。
下げた頭に低く重い声がのしかかる。
「ふん。教え子が教え子ならトレーナーの方も無礼じゃな。帽子すら取らずに挨拶しよる。」
二人の会話を側で聞くカレンチャンは震えていた。何も言えなくなってしまったようだ。
「失礼しました。礼儀をかいてしまい申し訳ありません。」
トレーナーがそう言って帽子を取り、再度頭を下げるまで10秒もかからなかった。
「お、お兄ちゃん…それ…」
「ワハハハハ!!なんじゃその頭!カッパのようではないか!」
先程まで地獄の閻魔のようだった老人が今度は子供のように笑っていた。
そこからカレンチャンが泣きっぱなしになってしまい、今回の挨拶はお開きとなった。
別れる時、お祖父さんは「すまなかった。また顔を出せ」と言ってくれていた。なんだか上手くいったのかもしれない。
「ほらもう泣かないで」
「だって…だって…」
「滅茶苦茶嬉しかったよ。俺のために君があんなに怒ってくれて」
「お兄ちゃん…」
二人はいつもより近い距離で並んで歩いていた。身を寄せ合って、と言った方が正解かもしれない。
そんな二人の背後…否、頭上から忍び寄る影があった。アドマイヤベガのトレーナーである。
歩道橋の上で待機していたアドマイヤベガのトレーナーは、そこからジャンプしてカレンチャンのトレーナー…彼が被る帽子へと手を繰り出した。
普通なら体ごとぶつかってしまい大怪我だ。しかし自分の足首と歩道橋をロープで結び、ターザンの容量で立体軌道を成功させた。
結果、見事念願の帽子強奪を成し遂げることができた。
「よっしゃー!!!!俺の勝ちだ!!!!」
───しかし、そんな彼の様子も言葉も二人には届いていなかった。完全に二人だけの世界に入ったまま、帽子泥棒の事など無視して去っていってしまった。
しまった。降りる時の事を考えていなかった。地面に足も手も届かない。
「こんにちは」
万事休すか…と絶望していた彼の元に救いの女神が現れた。
自分の担当トレーナーの言葉を無視して、アドマイヤベガは七輪と団扇と秋刀魚を用意した。
「なにこれ…ゴホゴホッ!なにすん…ゲホッ!やめろ!アヤベ!アヤベさん!?ゴホゴホ!なんで!?」
「プラネタリウム?テンタイカンソク?」
「は?何の話…」
「………」
「ゴホゴホゴホッ!やめてくれ〜!!!」
カレンチャン達カップルとは程遠い二人であった…
デートするって言ったじゃない