怪訝な表情の少女に、脂ぎった男性がディスプレイ用のスマホを見せながら辣弁をふるう
自分を新規ベンチャーの社長と名乗る男は、厭らしい笑顔を近づける
ここが一族主催の会食パーティでなければ躊躇いなく通報するような場面である
「───つまり、催眠治療に必要な音や光パターンを再現できると」
「はい!ぜひお嬢様にもお試しいただきたく……」
「残念ですが、今の私は治療が必要な状態ではありませんので」
「いやいやいや!!治療なんて大それたのじゃなくてもいいんですよ!!例えばほら……そうだ、簡易的なセラピーとかいかがですか!」
「ふむ、催眠セラピーですか……」
「はい!ほら……こういうふうに……」
「……それが何か」
「いや、こういう風に見つめるだけで使えるってことですね。ただ催眠ってすごい繊細なので、静かな場所じゃないとダメなんですよ」
「存じております」
「流石はお嬢様!ああ、あと大切なのは、"相手が心を開いてること"ですね」
「ふむ……」
「催眠って寝起きで動いてもらうみたいなものなんで、相手を完璧に信頼してないとすぐ解けちゃうんですよ」
そう言った男はスマホと名刺を重ねて握らせ、彼女の下を後にした
「ではよろしくお願いいたします!」
「……まだ承諾していないのですが」
他のアプリは削除されており、スマートフォンとしてのアイデンティティを無くしていたそれを机に置いたとき、ノックの音が聞こえた
「どうぞ」
「やあ、お疲れ様ルビー」
トレセン学園に在籍する身であり、一族の威光をレースで示す今の彼女とトレーナーは切っても切れない関係である
実際彼はこのような社交界でも人気があり、欠席を残念がられることもあった
最もそれは単なるルビー人気だけではなく、彼女の弱みを握ろうとする思惑もあることに彼も気づいている
だからこそ彼女と同様に不用意な発言はできない、立ち振る舞いに瑕疵があってはいけない
その緊張が解けた今、彼の疲れは誰の目にも明らかであった
「うん、じゃあ……っとと」
振り返って退室しようとしたトレーナーの体がぐらりと揺れる
大きく頭を振り、ため息を吐いた彼は振り返ると恥ずかしそうに頬をかいた
「ははは、最近忙しかったからかな。お言葉に甘えて……」
「お待ち下さい」
呼ばれ、再び振り向くと、先ほどまで机に向かっていたルビーがベッドに腰かけて隣をぽんぽんと叩いていた
その意味が一瞬分からなかったのは、彼が疲れていただけではないだろう
彼女はトレーナーをベッドに座るように促す
その手に借りたスマートフォンを握りながら
手触りのいいシーツの上に腰かけると、入れ替わるようにルビーが立つ
見覚えのないスマートフォンを操作していることを疑問に思っていると、彼女が画面を見たまま口を開いた
「とある方に催眠療法を行えるアプリというのを御貸しいただきました」
「催眠アプリ……?」
「はい。使用感の感想を求められたので試用してみる必要がありまして」
「……いいよ、付き合おう」
「では。……力を抜いて、画面から目を離さないでください」
何も考えず、私の言葉に従ってください──────
はい、全て委ねてください──────身も、心も────
ほら──だんだんと気持ちがよくなって───ぼんやりとして────
ふふ、眠たそうですね─────構いませんよ─────
ゆっくり───横になってください──────
低く、落ち着いたルビーの声に理性が溶解し、ふわふわとした快楽に本能が屈していく
時間にして数分も無いやり取りで、彼の意識は完全にダイイチルビーの手のひらに収まってしまった
(想定していたよりも掛かりが早い……疲労か、それとも資質か。報告するならもっと対照化を……)
「ん〜……」
(……今は、彼に集中しましょうか)
アプリの説明によれば、催眠は絶えず掛け続けるものであるとされている
とはいえそれは放置してはいけない、という程度の意味であり、画面を向けずとも適当にやり取りしていればよい
彼女はスマホを傍らに置き、虚ろな目で天蓋を仰ぐトレーナーに寄り添った
大きな声は厳禁、となれば必然、耳元に囁く形で
「ん……」
「普段遠慮していること、恥ずかしくて言い出せないこと、大丈夫、リラックスして……」
「……」
「ここには誰もいませんから、そう……ゆっくり、委ねて……」
身も心も緩みきって、一番無防備になったトレーナーがゆっくりと首を傾ける
添い寝する形のルビーと視線を合わせ、おもむろに口を開いた
「ルビー……」
「はい」
「かわいいね……」
「はい……?」
「……!?」
「きっとそれが、ずっと当たり前だから、君は何も思ってないのかもしれないけど……」
「……」
「ずっと尊敬してるし、たまには緩んだところも見たいんだよ……」
褒め殺し、甘やかす
体面を重んじ、常に一族の恥とならぬように指先まで研ぎ澄ませてきた彼女
休息すら厳かに、しかし過不足なく彼女にとってなんら必要のないそれを、トレーナーは求めていた
(これがしたいこと……?確かに、平時なら断るでしょうが……)
「抱きしめてもいい……?」
「……はい」
「ふふ、小っちゃい……」
肌触りの良いシーツの上で、安心感のある硬さと暖かさをはらむ腕の中にすっぽりと体躯が収まる
なおも甘い言葉は囁き止まず、頭の上にある耳がちょうどそれを至近距離で受け止める
「ルビーに会えて、担当になれて、幸せだよ……」
(……そろそろ、頃合いでしょうか)
「本当はもっと甘えて欲しいし、頼ってほしい……」
(でも、体が動かない……?)
自身の異変に気付いた時にはもう手遅れだった
催眠アプリはあくまで導入手段の一つでしかない
心の底からリラックスできるならば、同様の状態に陥ることは簡単である
音で、香りで、肌触りで、そして声で、ダイイチルビーの心身もすっかり解されてしまっていた
「トレーナー様……」
「ルビー……」
婚姻前の男女が抱き合って同衾した事実が、家の中でちょっとした騒動を巻き起こすのはまた別の話
これでリラックス状態になれるね❤️
リラックスしてるだけだから残ってるだろ
こちらのアプリを会社ごと買い取りたいとお嬢様達が……
こちらのアプリを会社ごと買い取りたいとお嬢様が……
「芝3000m、お互いの得意距離…異論はありませんね?」
「勿論です、挑戦はサトノの望むところですから!」