「いいね。エースもそれ出るって言ってた」
次のレースの方針や作戦を、彼女と膝を突き合わせて何時間も議論したなどということはない。先に何もかも決めてしまうことが彼女に必要とは思えなかったし、そんな彼女に中られたのか、最近は自分も椅子に座り続けることが億劫になってきていた。
結局、普通のトレーナーとウマ娘らしい会話はこの二言三言、時間にして一分にも満たない間に終わった。その短さもなんだか可笑しかったけれど、それが行われた場所を思うともっと可笑しくなってしまう。
「家でやる意味あった?」
「いいじゃん。楽しかったでしょ?」
揶揄うようにそう問えば、彼女はもっと悪戯っぽくにこりと笑って答えた。
その笑顔だけで、この時間に意味があったと思えるほどに。
『アタシの家でやればよくない?門限もないしさ』
答える前に彼女は家に行ったら何をしようか、久しぶりにきみの料理が食べたいな、と楽しげに呟いていて、すっかりその先のことに夢中になっているようだった。
『はは、まだ返事してないぞ』
『あははっ!そうだったね。
せっかちかもしれないけど、断られるってあんまり思ってなかったからさ。
だめかな?』
見透かされていると拗ねてみせる余裕もない自分が、ほんの少しだけ悔しくなる。恋の駆け引きの楽しみだけは、どうも彼女と共有できそうになかった。
『…いいよ。喜んで』
『いいね。わかってたけど、やっぱり楽しいや。
またおいでよ。用事がなくてもさ』
そうして彼女に言われるままに、お互いの家を代る代る訪れるのが、いつの間にか恒例の行事になっていた。
今日もまた、そういう一日のひとつだった。会議と言うにはあまりにも短すぎるやりとりの後に、今日は何して遊ぼっか、とはにかむ彼女の表情ももう見慣れたものになったはずなのに、いつまで経ってもそれが眩しくて仕方ない。
「いいな。トランペットのソロ、好きだよ」
「ふふ、わかる?アタシも。
繊細なのにすごくよく響いてさ。人の声が歌ってるみたい」
彼女の好きな音楽を聴きながら、彼女の声に存分に浸る。
きっと何度も繰り返されるそんな時間が、何度聴いても飽きない曲のように染み渡っていく。
それが喩えようもなく幸せだった。
彼女が漏らしたその一言は、本当になんでもない独り言のように響いた。けれどその言葉の重みは、ゆったりと微睡みに落ちつつあった意識を引き戻すには十分すぎた。
何も言わずに、ただ彼女を見つめた。けれど彼女は照れるでも訂正するでもなく、ただ確かめるように、改めてにこりと微笑んでいた。
「…本当に?」
「ほんとだよ。
朝起きたらきみがいるって思ったら、すごくわくわくするんだ」
彼女のその言葉で、直視するには眩しすぎた想像が嫌でも掻き立てられる。
少し髪を跳ねさせた彼女の寝癖を直してやって、おはよう、と笑う彼女に同じ言葉を返す。彼女につられて少し早めに起きた分、彼女の好物を作る一手間も惜しくなくなる。
きっと彼女は目敏くそれに気づいて、楽しそうにキッチンを覗きに来るのだろう。いつものように。
いただきます、と一緒に言う時間が、とびきり楽しみになるような、爽やかな微笑みを携えて。
それがひどく幸せだから、自分の中のつまらない大人の部分が水を差そうと躍起になる。
彼女の部屋を何度も訪れただけに、あの部屋にどれだけ彼女のこだわりと愛情が詰まっているかということは、容易に想像できた。いま一緒に暮らすということは、彼女にそこを引き払わせて狭い部屋に押し込めるか、彼女の世界をひとりの居候が圧迫するということを意味する。
それを彼女が望むとは思えなかった。
「…今はひとりの時間もほしいだろ?」
純粋な善意と好意から言い出してくれた彼女を傷つけたくなくて、持って回った言い方しかできない自分の臆病さがもどかしい。けれど彼女はそれに気を悪くした様子はなく、また愉快そうにくすくすと笑った。
「あははっ。確かにそうだ。
…アタシよりアタシのこと、もうわかってるかもね、きみは」
そんな彼女と同じ道を歩むうちに、どこまでも正直で、不器用で、それでもひたすらに陽気に、好きなものへと走っていく彼女の生き方が、どうしようもなく好きになった。
誰に報いるためでもなく、ただ自分のために走り続ける彼女が、好きだよと想いを告げてくれた日のことは、きっと一生忘れられないだろう。
そのくらい、彼女を愛していた。一緒に暮らそうと言われたときに、すぐに首を縦に振れない自分が、どうしようもなくもどかしかった。
彼女の誘いを断ってしまった分、彼女のことがひどく恋しい。せめて今日だけは、もっと一緒にいたい。
「もう遅いね。
そろそろお暇しようかな。アタシもちょっと眠いや」
けれど、彼女はそんなことなんて知らずに、今日もいつものように別れようとしている。そして自分も、そんな彼女を引き留められる言葉を、持たない。
「…そっか。気を付けてな」
それが何となく伝わってしまって、少し不思議そうな顔をしている彼女を見て、漸く思い直す。
「いや、なんでもないんだ。
帰るなら早い方がいいよな。寒いからさ」
彼女は縛られることを嫌う。一方的な愛情で自分の自由を損なわれることは、彼女が一番望まないだろう。
だから、抑えなくては。どんなに彼女が恋しくても、彼女の自由を奪いたくない。
またね」
「…うん。おやすみ」
微笑みながら手を振って、玄関の向こうに消える彼女の背中に、思わず手を伸ばしてしまいそうになる。
彼女がいなくなった後の部屋の静寂に耐えられなくて見もしないテレビをつけても、結局彼女のことを忘れられない。携帯を取って、なんでもいいから彼女にメッセージを送りたい気持ちを必死で抑える。
正しい選択をしたのだ。もうこれ以上考えるのは止そう。
明日になればきっとまた会える。彼女と今生の別れをしたわけでもあるまい。
なのに、どうして。
こんなに、寂しくて仕方ないんだろう。
「…一緒にいたいよ。俺だって」
誰にも聞こえないように言うと、余計に寂しさが募る。散々一緒に過ごしたはずなのに、今はただこの一分を彼女とともに過ごせないことがもどかしい。
──こんなに誰かを好きになったことなんて、なかった。
暗い部屋の中に、呼び鈴の音だけが鳴り響く。感傷的になっている今の自分を驚かせるには、十分すぎるほど鋭い音色だった。
この時間に誰が訪ねてきたのだろう。隣の住民から今更のように騒ぎすぎた苦情が来たのだとしたら、本当に今日はどうしようもない日だと、ついつい思考が後ろ向きになる。
もう一度鳴った呼び鈴に急かされるように、寝間着を脱いで着替えをする。こんな時間に訪ねてくるのだから、寝間着でなければ何で相手をしてもよいだろうと、そのときは半ば自棄になっていた。
だらしのない部屋着で出てきたことを、すぐに後悔した。
「やっほー」
一番逢いたかったひとが、そこに立っていた。
初めに来たときよりもなお楽しそうに微笑んでいる彼女に、当然のように問を投げる。
「うん。帰ったよ。
帰ってからまた来たの」
困惑する自分を他所に、彼女はそれがごく当たり前のことのように、その笑顔を崩さずに事も無げに答えた。けれどまだ自分には、その意味がわからない。
「…なんで」
それを問うたときに彼女はようやくその爽やかな笑顔を崩して、ゆっくりと目を細めてこちらを見つめた。
「きみの顔がさ、行かないでって言ってたから。
可愛くて戻ってきちゃった。そしたらどんな顔するかなって」
手を添えられた頬が、燃えるように熱かったことを覚えている。
さっきとは違う、慈しむような微笑みを見ていると、今まで必死に隠していたことがぽろぽろと漏れ出してくる。
「…一緒に住もうって言われて、本当は嬉しかったんだ。でも、今一緒になっても、シービーは苦しいかなって思って。でもそしたら、余計に君が恋しくなって。
…ごめん。ずっと言い訳してる。怖かったんだ。我儘言って嫌われたくなかった。
…でも、結局気を使わせちゃったな」
もっと一緒にいたい。ずっと愛してると言いたい。でも、どんな想いも振り切って走り出せることが彼女の美しさなのだと、自分は知っている。
彼女を諦めたくなかった。想いが届かないことも、その想いを拒まれることも、受け入れられなかった。
「さみしかった?」
促されるようにそう言われて、そのまま口にしてしまう。
「…うん。
帰ってほしくなかった」
格好悪いとわかっていても、もう誤魔化せなかった。自分から遠慮したのに、本当はもっと彼女が欲しかった。
悟るような、諦めるようなそのひとことだけで、今の弱い自分は簡単に不安になる。
失望してしまっただろうか。今まで彼女を縛ろうとしてきた人たちと同じように、自分も彼女に何かを求めていると知って。
けれど、そんな不安を吹き飛ばすように、彼女はやはり楽しそうに微笑んでいるのだった。
「そうなんだね。ふふっ。
…やっぱり、きみってかわいいや。すごく」
そんな言葉と一緒に軽やかに抱きしめられて、どうしたらいいかわからなくなる。
どうして。恥ずかしい。うれしい。そんな気持ちが混線して、次に言う言葉が出てこない。
「ずっと一緒は、今はまだ窮屈かもしれないけどさ。
今日は一緒にいようよ。アタシも、きみのそばにいたい」
…ただいま、トレーナー」
結局、臆病な自分が絞り出せたのは、君はそれでいいのかという、要らぬ心配だけだった。
「…いいのか?
俺の我儘だぞ。一緒にいたいって」
「だめかな?きみの目を見たら、アタシももっと一緒にいたくなっただけなのに」
そう答える彼女の瞳は、いつもと同じように、目の前の景色を楽しむように、無邪気にきらきらと光っていた。
その目を見ていると、抑えていた気持ちが溢れ出てくる。
「…ごめん。心配させて。
…ありがとう」
無理を言ってごめん。本当はもっと一緒にいたい。
それでも、戻ってきてくれて、ささやかな我儘を聞いてくれて、ありがとう。
「いいよ。いいの。
いっつもきみは、アタシのわがままを聞いてくれてたじゃん。そんなきみがわがまま言ってくれて、それだけ想ってくれてるって思ったら、なんかうれしいんだ」
「それにさ、誰かが言ってたじゃん。
タブーは人が作るものに過ぎない、って」
タブーを犯したはずの自分を見て、彼女はそれが楽しくて仕方ないように笑っていた。
言葉を交わさなくても、一番欲しかったぬくもりが隣にある。少しだけ伸ばした指が、自分のものよりずっと細くてやわらかいそれに捕まえられることが、嬉しくて仕方ない。
「ごめん」
それでも、謝ることから始めなければならない。今日、自分はタブーをふたつ犯した。
どうしたの?」
うんざりするでも咎めるでもなく、ベッドに腰掛けた寝間着姿の彼女は、ゆっくりと首を傾げた。
無理もないことだろう。今日の自分は感傷的すぎると、自分でも思う。それでも、越えてはいけないと思っていた一線をふたつも越えてしまえば、感情が寄りかかる場所をどこかに探したくなって、ついとりとめもないことまで喋ってしまう。
「聞きたいことがあったんだけどさ。
思いついといて、傲慢だなって今更思った」
「なに?気になるじゃん。
言ってよ。怒んないからさ」
越えてはいけない一線。ひとつめは、どこまでも自由でいたい彼女を、自分のエゴで引き留めてしまったこと。
そして、ふたつめは──
「…俺が、シービーのこと変えちゃったんじゃないかって」
だから、大丈夫。絶対に、誰にも奪わせたりしないから』
アタシのことを心配する彼に、いつかそう誓ったことがあった。
アタシはアタシ。他の誰のためでもない、アタシのためにアタシになるんだ。自分の生き方を、どこまでも愛しているから。
だから、どれだけ重い使命も、尊い思いも、アタシを変えることはできない。
でも。
アタシよりも、アタシのことをわかってくれるひとがいたなら。
アタシがひとりで走り続けるより、もっと楽しい場所があって、そこに連れていってくれるひとがいたなら。
「前のシービーなら、嫉妬や執着が嬉しいなんて言わなかったんじゃないかって。
どんな想いを乗せても、シービーには届かないし、それでいいってわかってるのに。俺が一番わかってなきゃいけないのに。
…傲慢だよな。こんなこと考えるの」
そのひとの想いは、アタシに届くかもしれない。
アタシ、きっと変わったよ。きみといて」
その言葉を聞いた彼は、申し訳無さそうに眉尻を下げた。
アタシは今のアタシが好き。だから、アタシは変わらない。変わるつもりもない。
昔のアタシはそう思っていた。そんなアタシを、きみも愛してくれた。
「でもさ。大事なのはきっと、変わったか変わらないかじゃないよ。
今のアタシを、アタシが好きでいられるかどうか、だから」
そんなきみだから、アタシは変わったんだよ。
きみの夢は、想いは、いつだってアタシを支えてくれたから。
アタシにとって嫉妬や執着は、いつも窮屈な感情だった。怒ってくれるならまだいい。泣かれてしまうと、自分は悪くないはずなのに悲しくなる。
嫉妬も、執着もしていい。それは向ける人の自由だ。それに応えるつもりが、アタシにないだけ。
──こんなに愛おしい執着があるなんて、思っていなかったから。
彼の頬に、ゆっくりと手を添える。アタシと違う少しざらざらした肌の下に、頬骨の輪郭があるのがわかる。
アタシと違うそんなきみが、アタシからは生まれないものをくれるのが、本当に楽しい。
「アタシ、今の自分が好き。
だって、昔から好きだったものが、今は嫌いになったわけじゃないんだもん」
アタシの見る世界は、いつだってきらきらと光っていた。その光をひとつでも多く見つけ出すことが、アタシの生きる理由。
「昔は好きだって思えなかったものが、好きだって思えるようになった。昔好きだったものが、もっともっと好きになれた。
それってすごく幸せなことでしょう?」
きみがいなかったら、気づかなかったよね。
好きなひとが嫉妬してくれるって、こんなに愛おしいと思えるんだって。
それがシービーの、生きる理由だから」
きみはいつだって、アタシの幸せを願ってくれてる。なのにその幸せがきみのおかげだとは、一言も言わない。
そんな奥ゆかしいきみが、そのタブーを破ってでも、アタシが欲しいと思ってくれてる。
それがひどくぞくぞくして、きみのことがもっと好きになる。
「きみがそういうアタシにしてくれたんだよ。
きみに出会わなかったら、アタシは今のアタシになれなかった」
だから、今日は一緒にいよう。
きみのわがまままで愛せるようになったのも、きみが寄り添ってくれたからだもの。
「きみが好きだよ。
アタシがアタシのことを、もっと好きになれるようにしてくれた、きみのことが大好き」
何度も交わしてきたはずの愛の言葉にも、初々しい反応をいつまでも返してくれるところも、アタシは大好き。そんなきみの恥じらう顔を何度見ても飽きない、アタシも大概なのだと思うけれど。
「だから、アタシのこと愛してよ。もっと自由にさ。
アタシが幸せで溶けちゃって、もうきみから離れられなくなるくらい、きみに夢中にさせてみてよ」
そんないつも通りのきみが好き。
でも、今はもっと、わがままで欲張りなきみに愛してほしい。
「ん…!?ん…!」
口の中を舌で思う存分ねぶるのと同時に、薄手の部屋着の下に手を差し入れると、きみの肌にすぐ触れられてしまう。
だめだよ。ちゃんと我慢しようと思ってたのに。もう縋るように抱きつくことしかできないきみの姿を見ると、きみを食べたくなって仕方なくなる。
まだ縮こまっているきみの舌を、ちゅっ、ちゅっと音を立てて吸い上げる。指先でかりかりと胸の先端を摘む度に、びくびくと可愛らしく震えるきみの身体を感じたくて、もっともっときみとくっついていたくなる。
アタシ、こんなにきみが好きだよ。
だから、きみも愛してよ。もっともっと、溶けてなくなっちゃうくらい。
名残惜しそうに伸ばされた手から逃げるようにベッドに倒れ込んで、わざとらしくぺろりと服を捲っておなかを見せると、そこを見つめるきみの視線だけで身体が熱くなるような気さえする。
お手本はさっき教えてあげた。きみにもこのくらい、アタシを愛してほしいから。
いつもはアタシがきみを捕まえていたけれど、今日はきみに抱きしめてほしい。
きみにアタシを欲しがってほしい。
好きって、言ってほしい。
「ん…ん…!
…ぁは…!」
切なそうな顔をしながら、いつもはしないキスの雨を降らせてくれる。
優しいきみの、優しいわがまま。
きみはどうやって、アタシを食べてくれるのかな。
好きだよ、も、愛してる、も、きみはたくさん言ってくれたけど。
行かないで、は、一度も言ってくれなかったから。
きっとそれは、きみの優しさだったんだろうけど。
でも、きみが呑み込んだその言葉がほしくて、アタシはここまで来てしまった。
きみが教えちゃったんだよ。
愛情が甘味なら、嫉妬はスパイスなんだって。
いつも甘く優しく愛してくれるきみが、少し大人気なく嫉妬してくれるって、すごく幸せなことなんだって。
アタシだけでは気づけなかった楽しさを教えてしまったのは、みんなきみなんだから。
だから、いっぱい妬いてほしいな。
いっぱい妬いて、いっぱい愛してほしいな。
きみが愛してくれてるって、もっと感じられるから。
その重さも心地いいって、思えるようになったから。
空の色を目に焼き付けたまま、きみの腕へと墜落したい。
きっとそこには、青い海があるから。
墜ちたアタシのことだって、きみは優しく抱きしめてくれるから。
だから、アタシに海の青さを教えて。
これくらいシービーを愛したり愛されたりしたいだけの人生だった
会いたい気分になったシービーが朝いつの間にかトレーナーの布団で一緒に寝てて「おはよー」とか当たり前のように言っててほしい
トレーナーも笑いながら「淋しいよ」って正直に言える関係になっててほしい