燦々と輝く太陽、そのすぐ下に広がる真っ白のカーペット。
ガラス一枚隔てた先は人の身には余る領域で、だからこそふわふわの座椅子もどこか落ち着かない。
それに、気持ちを浮つかせるのは外の景色だけでは無かった。
ちらりと反対に目をやれば、真っ黒なスーツに真っ黒なサングラスをかけた、ドラマや映画から飛び出してきたような人たちが機内を固めている。
その内最も近くに居た人が目敏く視線に気づき、何か用か訊ねてくるのに対しては断るのにも神経を使う。
おちおち専用機の内装も見られやしない、と窓の外に視線を戻す。
空の旅は存外窮屈な物ではあったが、これでは窮屈の度合いが違うと思う。
端的に言えばスカウトしたのが国賓の留学生で、立場もわきまえず玉砕覚悟で頼み込んだ果てに3年間の競技生活を共にしたということだ。
自分より一回りも年下の彼女は、その身には重たすぎるようにも思える使命を背負っていた。
しかしそれでも色褪せなかった走りへの憧れを、自分が無理やり掘り起こしたような形である。
今思えば身の程知らずにも程がある話だ。ケガでもさせようものなら巻き添えで何人の首が飛ぶか想像できない。
それに新人トレーナーが彼女の実力を引き出せなかったら、デビュー戦勝利すら飾れない情けない戦績で彼女を送り出すことになったら、……本当に、無事どころか立派な成績で送り出せたのが奇跡にしか思えない。
もちろん期待も責任も感じていたし、先輩後輩に妬まれるのが嫌というのもあって相応以上の努力はしてきたつもりだ。
その結果として海外研修の機会を得たり、立派な王女様になった彼女の来賓として迎えられることになったりした訳である。
「まもなく着陸いたします。シートベルトを締め───」
初めて踏んだアイルランドの地は、想像していたよりも暖かかった。
一般人もいる空港を、かっちりした案内とそれに向けられる好奇の視線に送られて歩いていく。
これまた座るだけで疲れそうなリムジンのシートに腰かけ、欧州の街並みを暗いガラスに流し映していく。
再会が楽しみな一方で、もう少し気軽な扱いを受けたかったとどうしようも無く思っていると、車が停まった。
着いたのは見てわかる一流ホテル。ここに自分も彼女も宿泊するらしい。
テキパキと手続きを済ませるSPの皆さんの中で喃語のような会話英語でチェックインをした後には、疲労感と英語の習得を目指す固い決意だけが残っていた。
「ありがとうございます、隊長さん。貴女もお変わりないようで何よりです」
「殿下は今回の来訪を首を長くして待っておられました。どうか、よいひと時になりますよう」
言葉を交わしたことがある人物がいるというだけで、随分と心が休まることを知った。
運び込まれた荷物は数日分の着替えと、仕事用品。
思い立って入れておいたご当地カップラーメン各種は別で届けてくれたようだ。
スイートルームとでも言うのだろうか。
一人で使うには確実に持て余す広々としたスペースには、ダブルサイズ1.5倍くらいのベッド、自分の中で地雷と扱いが大差ない調度品の数々、縦に寝そべられるくらい広いベランダに据えられたジャグジーバスなど。
ここは果たして寛いで良い場所なのか脳が混乱するような設備がわんさと盛り込まれていた。
結局小さなデスクにPCを広げて時間までずっと持ち込んだ仕事を片付け続けた。
借り物の正装に腕を通し、最低限のテーブルマナーを叩き込まれながらオレンジの廊下を歩いていく。
大きなエレベーターに乗り、見たことの無い数のボタンの示す階へ。
少し暗くなる廊下の先、件の場所が見える。
この途中、他の宿泊客は一切見なかった。
大扉には達筆な書体でレストランの名前が書いたプレートが飾られていた。
庶民的なレストランならおすすめメニューを書いたボードも添えられているところだが、そんなものは無いようである。
「一番奥のテーブルでお待ちです。いってらっしゃいませ」
開け放たれた扉の向こう、そこは、壁一面のガラスでアイルランドの夜景を映していた。
さっきよりずっと気持ちは軽くなった。
なるべく自然体で、意識する前にそう思える。
でも彼女なら、多少固くなってても笑ってくれるだろう。
「久しぶり、ファイン」
「お久しぶりです。トレーナー。どうぞ、座って?」
扉の反対側、窓際の一際大きな席で待っていた彼女は、紛れもなく王女だった。
薄緑のドレスを纏った体にぴん、と背筋を張り、微動だにせずまっすぐとこちらを見据えている。
ほんのり乗ったチーク、薄く塗られたぷるっとしたグロスは、血色を引き立てる程度にとどまっているはずなのに、あの頃の面影は残したままぐっと大人であることを引き立てている。
教え子の成長が喜ばしい一方で、高貴で、けれどちょっとやんちゃな彼女と目の前の彼女が地続きであることを意識せずにはいられない。
そんな、見目麗しい貴女に、少しくらっとやられてしまった。
「前回は、空港でちょっと話をしただけだったから」
「……うん、そうだね」
前回、だいたい一年くらい前のこと。
アメリカに出張していた時に彼女の来日を知り、なんとか一日こじ開けて緊急帰国をした。
その日は滞在最終日で、入れ違いでアイルランドに戻っていても全く不思議ではなかったが、一抹の可能性を諦めきれずに慌てて現地の教員に許可をいただいたのだ。
学園に一報入れれば待っていてもらえたかもしれないことに気が付いたのはUターンしてアメリカに飛ぶ機内の中である。
そもそもの身分の違いもあるのでそれ以外に接触を図ったことはない。定期的にメールのやり取りはしていたが。
「いや、随分立派になったよ。本当にお姫様みた……っと」
「本当のお姫様ですよ〜」
「そうだよな。もう大人だからワインも嗜むよな」
「……ひょっとして、まだ子供扱いしてた?」
「いや、ごめん。今、改めて実感したよ」
ぷくり、と頬を膨らませるその様子は、昔と変わらないなと思いながら、グラスを鳴らした。
昔話に花を咲かせ、時折運ばれてくるディナーに舌鼓を打つ。
こういった、いわゆる会食というのには縁がまるで無かったのだが、どうしてか彼女と一緒だと自然に振舞えた気がしていた。
気が付けばジェラートのグラスが下げられて、宴もたけなわといった雰囲気だけが残っていた。
「本当だ」
酒気を帯びて、品のいいアルコールの香りを纏う彼女は、火照っていることもありどこか色っぽい。
これがデートなら、この後もお楽しみなんだろうと淡く思うが、残念ながら本当に終わりである。
「長旅で疲れてるだろうし、今日はゆっくり休んでね。明日からは私がアイルランドを案内するから!」
「そうするよ。ああ、楽しみだ」
SPに促され、席を立ち、ホールを出る。
ふと、彼女に呼ばれた気がして振り返ったが、ただにこにこと手を振るばかりだった。
たった数日の滞在だというのに最終日ともなれば、あの巨大なベッドに軽くダイブできるほど、自分はこの部屋に心を許していた。
そう、最終日。
一応はアイルランドの学校とトレセンで提携を結ぶための視察という建前があり、関連施設を中心にルートが決められていた。
とはいえ外国のウマ娘の様子に興味が無いわけもなく、自分でもこのルートを辿るだろう観光ツアーというのが実態である。
レース場、現地の学園、グッズショップ、三女神がモチーフの銅像……
レポートの提出もしたのだが、普段のそれと比べれば気の抜けるようなものであった。
そんな楽しい日々も、もう終わる。
「ファインには頭が上がらないな。……いや、元々か」
「そんなに畏まらなくたっていいのに」
「ノックは」
「どうぞって言ってたよ?」
「……ごめん、上の空だった」
普段着、とはいえ溢れる気品がランクを引き上げて見えるそれの彼女は、当然のように男一人の部屋に踏み入り、当然のようにベッド端に腰かけた。
あまりの距離の無さに怯むが、拒絶するのも忍びなく、隣に座りなおした。
それだけ信頼されていると思えば、妙な気も起きないものだ。
「……今日で、最後だね」
「そうだね。本当に夢のような日々だったよ。君には感謝してもし足りない」
「うん、どういたしまして」
その気持ちは痛いほど分かる。
そもそもの3年間が奇跡の結晶で、今の時間はそのいくらもない残りのようなもの。
二度と顔を合わせない可能性の方が高いだろうし、メールだって諸事情で年に数通も送れない。
毎回が今生の別れ。一期一会の繰り返しだ。
その辛さに、あんまりにも多く繰り返しすぎたと感じるくらいに。
彼女もそれを分かっていると思っていた。
だから慰めの言葉をかけようとした。
その矢先だった。
「やっぱり、しおらしいのは私らしくないよね」
「?ああ、そう、だね」
そう言った彼女は、男の手を握り、眼を据えて彼を見つめた。
「……ああ、俺も大好きだよ」
少々面食らう、が返答の選択肢は用意していない。
当たり前のことを当たり前に言う。真意を秘めたとはいえ。
けれど
「その好きじゃないよ」
どうやら彼女にはお見通しのようだ。
そう、彼女は訥々と語る。
「お城から連れ出して、そこで私は、思いっきり走るの。……ちょっとしたら、もうそんなこと考えなくなってたけど」
「……それは」
「君のことだって、あの頃のことを思い出したんだ」
恵まれていて、抑圧された環境。幼いころの彼女ならそれから逃げ出したいと思っても不思議ではない。
いつしかその環境の意味を知って、責任を理解して、責務を背負う。
どちらも本心で、そこに不満は一切ない。
けれども、あるいはだからこそ、あの日のトレーナーは、彼女にとって白バの王子だった。
知らず知らず、閉じ込めた思いを、この広い世界に解き放った人。
直球真ん中、逃れる余地のない、気恥ずかしくなるほどべたべたな、求愛の言葉。
下卑た妄想の中の言葉。この世界の何もかもが許すはずの無いありえざる言葉。
一人の女性の、体裁も憧れも振り払った渾身の告白。
それを受け止めて、なお、彼は迷う。
この世の全ての男が望むような甘い言葉。だからこそ。
理想を上回るものをぶつけられて、すんなりそれを受け入れられるように人間というものは出来ていない。
王族と庶民、教師と教え子。
結ばれていいのは物語の中だけで、許されるのはそこに罰が無いから。
受け入れれば彼女は途方もない苦難に対面するだろう。
誹り、妬み、憂い、憤り、絶え間なく浴びぬようにどれだけの立ち回りがいるのだろう。
その対価として、ウマ娘を指導する以外能の無い男は釣り合っているとは思えない。
何故なら聡明な彼女がその事を理解していないわけがないからだ。
悩んだだろう、諦めかけたかもしれない。
それでもなお決意を固めて、この場所を準備して、時計の針が回る前に想いを伝えられたのだ。
かけた労力、費やした心労、想像するに有り余る。
だからこそ、言葉が出ない。
安易に受け入れられず、安易に拒絶できない。
その決断をするのに、歩んできた男の道は矮小すぎた。
息が出来ず、声が出ない。
それでも道を開こうと、必死に喉を震わそうとする
その緊張を解いたのも彼女の一言だった。
ふっと表情を解き、傾けた体を直す。
緩んだ空気に息を吐き、けれどすべき判断が残っていることに内心焦る男に、彼女はこう言った。
「だから、キミの退路を塞いであげます」
「はぁ」
いつものような、いたずらっぽい微笑みで。
「私知ってるよ?キミが体操服のお尻ちらちら見てたこと」
「『脚の調子を見てたんだ』くらい言ってくると思ったんだけど」
「ぐぅ……」
確かに性的な視線を向けたことが皆無ではない。ないのだが。
こうして隠していた本人から突きつけられるのも、また心を深くえぐるものである。
「胸元もちょくちょく見てたけど。……やっぱりエアグルーヴくらい無いとだめ?」
「いやっ、それは」
「はっ!それともフラワーちゃんみたいなのがお好きな方……!?」
「ちがうちがうちがう!」
「これでもおっきくなった方なんだけどなぁ」
「ぐっ……ぐう……」
確かに現役時代よりも丸みを帯びた体やら、相変わらず健在の垂涎ものの脚やらがどうしても気になってしまう。
わざとらしくめそめそする態度も見飽きたものなはずなのに、動揺からかいなすにいなせない。
「やっぱり私のこと、"そういう目"では見られない?」
「……へっ、返答に困る質問は止めてくれないか」
「それってだいぶ答えの裏映しな気がするんだけど、まあいっか」
何を答えてもどつぼに嵌り、無言だって肯定にカウントされてしまう。
うっとうしいほど溢れる唾を飲みこみながら少しずつ落ち着きを取り戻す。
「キミが私のことを恋愛対象から外してないのは分かったからよしとして」
「何もよくない……」
「やっぱり、ウチに来るのは怖いよね」
「どうしてもお婿さんに来てもらうことになるし、王族の一員になるからには相応の振る舞いが求められる」
「え、あ、ああ……」
「普通の暮らしには戻れないし、ずっと窮屈な思いをさせちゃう」
当然だと思う。
想像するのは日本のそういった方々だが、漏れ聞く話はとても羨ましいと言えるものではない。
文字通り国の一部として、人にあって人にあらず、文字通りその身の全てを捧げる。
そういった印象もあながち間違いではないと、彼女を見ていて思う。
当然、そんなことは彼女も理解していて、だからこそ。
「でも、それでも私はキミとずっと一緒に居たい」
「……随分、我儘だね」
「何をだい?」
「キミが、いつも私のお願いを断らないってこと」
にっ、と屈託もなくそう言われてしまった。
「……完敗だ」
「じゃあ、言うことはちゃんと言ってほしいな。私だって、そういうの憧れてるんだよ?」
男はベッドから降りて、彼女に跪く。
「はい」
「僕は君が好きだ。出会った時から、ずっと」
「はい」
「結婚してくれ。……身分の違いも、君となら乗り越えていけるから」
「……っはい!」
こうしてアイルランドの王族の末席に、一人の外国人が籍を置くことになった。
日愛の架け橋として、ウマ娘とトレーナーの関係の一つの末路として、大きな話題になったのは言うまでもない。
二人が生涯、苦難にまみれながらも幸せに過ごしたことも、なおのこと言うまでも無いだろう。
>「キミが、いつも私のお願いを断らないってこと」
しまった勝てない
お願いを絶対遂行してくれるわけじゃないけど合理的に考えてより良い方を提案してくれるっていう意味で聞いてくれるじゃなくて断らないにした経緯があります
これだけは真実を伝えたかった
中々デキる夢だ…
それと夜までの夢も見て出力して貰うんだが?
子どもがいる姿でもいいです
先に知りたかった
スウェーデン王室だね
ファインの話題でもよく挙がる
良い話なんだけど末路言うなや!
「私を選んで!」と最後の詰めだけは相手に選ばせるのが凄くわかる…
お互いに公務をしっかり終えて後ろめたさが何もない時にするわがままは気持ちいいだろうな…
あっちの世界じゃ殿下の日本留学は何度も映画化されるだろう
とんだプレイだよ!
久しぶりに会った時にローマの休日を一緒に見てラストシーンの後にちょっと切なくなっちゃうんだけど「あのラストシーンは好きだけど、私はきみを逃がしたりなんかしないよ♪」って言われるトレーナーの幻覚が見えた
100年後くらいに朝ドラになってそう
どっちだ…?と想ったけどあっちはたわけか
一分で振り返る朝ドラ 育成契約打ち切りトレーナーとか思いついてしまってすまない…
だからもっと夢見てくれ頼む
ありがたい…