流石に鬼のトレーナーさんといえどもこの雨の中わたしを走らせるほど冷酷ではない。室内トレーニングに切り替えようにも、前日から予約でいっぱいなはず。となれば、あとはトレーナー室で出来るトレーニングをするしかない。
レースのDVDを見たり、動画を見たり、作戦会議したり……とにかく、肉体を使うトレーニングよりは楽で楽しいのは間違いない。
そういうわけで、ウキウキ気分でトレーナー室の扉を開けたんだけど……
「お、来たね。じゃあプールまで移動しようか」
タイミングよく、雷がゴロゴロと鳴った。音を立てて崩れるわたしの楽しい練習時間。雨につられて涙が出ちゃいそう。
「い、いやぁ……多分他の子が練習してて空いてないんじゃないですか?」
「大丈夫。昨日天気予報を見て、ちゃんと予約したから」
「どうしてそんなにわたしをイジメるんですかぁ……」
「四の五の言わずにさっさと動く!開始が遅れればその分練習が伸びるだけだぞ」
「うぅ……ひどすぎる……こんなの……こんなのってぇ……」
「……で、なんでトレーナーさんも水着なんですか?」
「だって前回のプール練習の時言ってたじゃないか。俺もプールに入るならやるって」
あれぇ?そんなこと言ってたっけ……?とにかく早く帰りたい一心だったからよく覚えてないや。しかし、迂闊だぞ、その日のわたしよ。
「じゃあお手本見せてくれるってことですか?」
「いや。俺も泳げないからな」
「じゃあなんで着替えたんですか……」
「君の練習のためだからね。さぁ、一緒にもがくぞ!」
何故か得意げに胸を張って張り切るトレーナーさん。なんかちょっと可愛いと思ってしまったのは悔しい。
当たり前だけど、男女一組でプールに入っているのはわたし達だけ。周囲の子からの好奇の目をヒシヒシと感じる。プールの水では冷やしきれないくらいには恥ずかしさで体が熱くなる。もうこうなったらヤケじゃい。
ヤケクソ気味に泳ぎだして30秒。忘れていた。わたしが張り切ると大抵、ろくなことにはならないということを。
停止してしまった体が沈まないように足を動かそうとするが、痺れがそれ許さなかった。まるで棒になったかのように動かない。痙ったのだ。
なんとか水面で息を吸うために辛うじて動く上半身をバタバタと振り回しながら浮き沈みを繰り返すが、だんだんと顔に水面が近づいてきている。要するに、溺れる直前だった。
「ヒシミラクル、大丈夫か!?」
「大丈夫じゃなガボボォ!……早く助け……ゴボッ!」
もう、必死だった。だって、見えたんですよ?死が。なりふり構ってられないわけです。
「もう大丈夫!大丈夫だから。支えてるから!ヒシミラクル!クソ、なんて力だ……」
「わぁぁぁ!死ぬ、死ぬぅぅぅぅ!」
結局、わたし達はプールで練習していたウマ娘のみんなに救助されたらしい。
「……トレーナーさん、生きてます?」
「……うん。なんとか」
「怒られちゃいましたね。みんなに」
「迷惑かけちゃったしなぁ。申し訳ない。何より、君にも怖い思いをさせてしまった」
わたしとしては、そっちよりも揉みくちゃになってたことの方が気になるというか……色んなところを触ったり触られたり、ひっついたりで、そのぉ……未だにドキドキしてるのは、息切れだけのせいじゃないはずで。
「悪いと思ってるなら、もうプールトレーニングするなんて言わないですよね?」
「それは無理だ。スタミナトレーニングには効果的だからな。君は長距離が得意だし」
「どさくさ紛れに乙女の体を弄んだクセに!」
「それについても謝るよ。……ところで、ヒシミラクル。最近、体重管理はちゃんと出来てるの?」
そう言いながら、トレーナーさんはわたしのお腹を指差す。な、なんてデリカシーがない男なのだろう……仮にも女の子の体をあちこち触っておいて、かける言葉がそれなのか。
「トレーナーさんの鬼!スケベ!デリカシーのないセクハラ男!」
「なんとでも言いたまえ……あ、いや、ごめん。やっぱり静かに……」
珍しくわたしの罵倒にバツが悪そうな顔をするトレーナーさんの視線を追うと、わたし達をじーっと見つめる友人たちの顔。
さっきからのやり取り、全部まるまるじっくりと見られていたみたい。
「わたし達が必死に練習してるって時にあんたはもう!見せつけちゃってさぁ!」
「ちゃうよ!そういうんとちゃうからね!?」
うへぇ……この先、わたしはこのネタで何度もイジられることになるだろう。それもこれもこの人のせいである。
「トレーナーさん!責任取ってくださいよ!」
「ヒュー!ヒュー!ミラ子、積極的ぃ〜」
「だから違うって!ほら、トレーナーさんもボサッとしないで!」
きまりが悪そうにしているトレーナーさんの手を引っ張ってプールを出る。最後まで後ろから友人たちの冷やかしの声が聞こえたが、無視無視。
更衣室で着替えながら、今夜トレーナーさんに何を奢らせるか考える。それくらいしてもらわなくては気が済まないし、頼めばあの人も奢ってくれるはずだ。やっぱり、お好み焼きがいいかな。
だけど、水着を脱いだ時。手鏡に写った、他の子よりもほんのちょっと、本当にちょっぴりだけふくよかなお腹周りを眺めて、思い直す……
なんてことにはならず、やっぱりその日はトレーナーさんにお好み焼きを奢ってもらうことに決めた。
トレーナー室に戻ると、相変わらずトレーナーさんは申し訳無さそうな顔をしていた。
「悪かったよ。あんな風にからかわれて、嫌だっただろう」
「いえ? そんなに」
へ? と気の抜けた返事をするトレーナーさん。なんだか、いつもは見せないそんな抜けた顔が面白くて。これとお好み焼き奢りで今回のことは水に流そうと思った。
「でもまぁ、お好み焼きは食べたい気分ですね〜」
「分かった。お金を渡すよ」
「何言ってるんですか。トレーナーさんも一緒ですよ」
「いや……でも、いいのか? 酷いことをしたのに」
「まぁ、ノープロブレムです。あれくらいで嫌いになったりしませんって」
「まぁ、善は急げですよ。混まないうちにお店行きましょう」
「そうか……ありがとな。ヒシミラクル」
まぁ、今日はプラスマイナスゼロってことにしてあげましょう!
でも、やっぱりお好み焼きの分、ちょっとだけプラスかな。そんな風に思う、チョロいわたしなのでした。
ミラ子、かわいいぞ。
普通というか……平熱
鍛えてえ
鍛えてレースに勝たせてえ