自分のものではない誰かの記憶――それを夢に見ることがあるらしい。
その記憶はウマ娘が生まれる時に授かるウマソウルに宿るものであるのだとか、まことしやかに言い伝えられていたりする。
しかし、実際のところを知る者は誰もおらず、この現象の研究もそれほど進んでいない。
それに、その記憶は大抵がかなり断片的であり、内容を正確に覚えている者も少ない。周期はバラバラだが何度も繰り返して見るのでそうだとわかるだけで、そうでなければ単なる夢と大した違いもない。
故に、この現象が本人に悪影響を及ぼすことも稀であるので、特に問題視されてはいないのが現状だった。
記憶の夢を見ても大体のウマ娘は気にしない。少し変わった夢を不定期に見るくらいで、心身に異常が生じるようなこともない。
みんなウマ娘にはそういうこともあるのだと割り切って生きているし、世の中も回っている。
それで何か大きな問題が起こったという話も聞かないので、恐らくそれなりに正しい向き合い方ではあるのだろう。
グラスワンダーも、そんな不思議な夢を見てしまうタイプのウマ娘だった。
いや、変わっているというより、夢の深度が他のウマ娘よりも少しばかり深いようだった。
内容を正確には覚えていない方が大多数の中で、グラスワンダーには割合はっきりとその夢の記憶が起きてからも残っていた。
なので、ある時期からそれを見ている時にはすぐに夢の中で気づくようになった。
……ああ、またあの夢だ。
そして、意識を保ったまま、グラスワンダーはその夢を傍観することになる。
魂に宿っているとされる、自分ではない誰かの記憶を。
だが、それでも夢の中で意識を保ち続けることは難しい。
だから、グラスワンダーの意識はいつしか記憶の主と緩やかに溶け合い、混ざり合っていく。
グラスワンダーは、「――――」になる。
そのウマ娘は走ることが大好きで。レースが大好きで。勝つことが大好きで。
何より、トレーナーが大好きだった。
自分の担当トレーナー。付きっきりで面倒を見てくれて、指導してくれて、勝利に導いてくれる人。
私を誰より速く走れるようにしてくれた人。私を一人前にしてくれた人。
そして何より、私を優しく、慈しむように撫でてくれる人。
私は彼が大好きだった。彼の喜ぶ顔が見たくて、自分以上に彼のために走っていたと言っても間違いではなかった。
彼に走りぶりを褒められて、彼と勝利を分かち合えることが何よりも幸せだった。
だけど、幸せな時間はそう長くは続かなかった。
それは小さくとも私の調子を落とし、走りを翳らせるには十分だった。
走るのをやめて、しばらく休むことになった。
その間にトレーナーは他の子へ注力することとなった。
私と同期の、ライバルと言える関係の子に。
私に注がれるはずだった愛情と熱意が、全てその子に奪われていく。
その光景を私はずっと目の前で見せられた。
悔しかった。悲しかった。苦しかった。涙を流し、この運命を憎んだ。
けれど、私はそれ以上に怖かった。
そんな考えが何度も頭を過ぎり、怖くてたまらなかった。
彼が同時に担当していた私のライバルは、彼の指導の下で目覚ましい活躍を見せていた。私に勝るとも劣らない、煌めくような才能を、強さを誇っていた。
そのライバルに自分が負けているとは思わなかった。けれど、もしもこのまま怪我が治らなかったら? 調子が戻らなかったら?
そうしたらトレーナーは私ではなく、あの子の方を選ぶのではないだろうか。
私から、離れていってしまうんじゃないだろうか。
私はそんな恐怖に取り憑かれて、休養期間をずっと怯えて過ごしていた。
そのせいか怪我を完治させレースに復帰しても調子が戻らない日々が続いた。焦りと恐怖で空回りしていた。
そのレースに際し、担当トレーナーはいよいよどちらかを選ばなければならない。
私は自分が選ばれるとは到底思えなかった。周囲もそう思っていたのだろう。そんな雰囲気が漂っていた。
何故なら、ライバルのあの子はますます上り調子、飛ぶ鳥をも落とす勢いだったからだ。片や私は復調の兆しも見えない、かなり厳しい状態だった。
トレーナーとしてどちらを優先し、選ぶべきかはまさしく明白。
自分自身、半ば諦めていた。私が選ばれることはないだろうと。それが彼にとって正しい選択であることもわかっていた。
なのに――。
驚くべきことに、彼は私を選んでくれた。こんなにも弱り果て、不甲斐ない私の方を。
しかし、それも束の間。私はすぐに一転、地に叩き落とされる。
ライバルの子はトレーナーに抗議していた。どうして自分を選ばないのかと。
当然だ。私があの子でもそうしただろう。納得できるはずがない。
それに対してトレーナーはその子を優しく宥めながら、穏やかにこう告げていた。
「君は、もう僕がいなくても十分に強い。だから、大丈夫」
それを聞いて、私は一瞬目の前が真っ暗になった。血の気が引き、浮かれていた心は即座に凍り付いた。
そして、思う。納得する。
ああ、そうなんだ。私は弱いから選ばれたんだ。選ばれて、しまったんだ。
耐え難い屈辱だと感じた。私にだってプライドがある。穏やかな普段の気性に反して負けん気の強さは人一倍だとも言われている。
だからこそ、自分があの子よりも弱いから選ばれたのだという事実はその誇りを酷く傷つけた。
私は怒り、そんな哀れみで自分を選んだトレーナーに衝動的な憎悪さえ向けた。
だけど――。
奇妙なことに、どうしようもないことに、私はそれと同時に誤魔化しようのない喜びも覚えてしまっていた。
心のどこかで「それでも」と思ってしまっていた。
それでも、いい。
それでも、嬉しい。
自分が弱いのも。弱いと思われるのも。何よりも嫌なはずなのに。
トレーナーに選んでもらえたという事実は、それと並んでしまう程の喜びだった。
完全に相反する感情が同時に発生したことで私の心は捻れ、身体ごと二つに裂けてしまいそうに錯覚した。
いや、早急にそのどちらかに落ち着かなければ本当にそうなりかねない。思わず本気でそう危惧するまでに私は追い詰められた。
その結果、私は選んだ。選んでしまった。
それでもいい、と。そう、思うことを。
彼を失うくらいなら。他の誰かに取られるくらいなら。見捨てられてしまうくらいなら。
私は弱くてもいい。弱いままでいい。あの人を自分に繋ぎ止められるなら。
あの人に心配されて、世話を焼かれる自分のままでもいい。
そんな風に、私は己の弱さを、甘えを、肯定することを選んでしまった。
あの人とずっと、共に在りたいがために。そのためだけに。
そうやって易きに流された報いは、いずれ必ず訪れるのだということも知らないままで。
己の弱さを敢えて看過したとはいえ、私はそれでも懸命に走った。全力で駆けた。
無論、強くあるに越したことはない。正しい魅力でトレーナーを引き留められるならそっちの方が遙かに良い。
怪我や好不調の大きな波に依然悩まされ続けたことは否めないものの、彼の指導に恥じない立派な戦績も打ち立てられた。
それでも、私の心の奥底にはあの日芽生えた弱さと甘えが残り続けていた。それはどろりとへばりついて取れないまま、きっと私の心をじわじわと蝕んでいたのだろう。
結局、私はそれを消し去ることが出来ずに抱え続けていた。もしかしたら、いずれ再び機能するかもしれない保険のように、お守りであるかのように勘違いしたまま。
そして、それがおめでたくも致命的な思い違いであることは、私にとって最悪の形で判明することとなる。
そう、何の前触れもなく唐突に、トレーナーと引き離されるという形で。
私の不調だ。私は幾度目かの不調に悩まされ、勝てなくなっていた。
全ては己の不甲斐なさ、精神の未熟が原因だ。それは自分でもわかりきっていた。
それなのに、周囲はその原因を別のものに求めた。
これだけ調子を落とすのは、もはや本人以外に原因があるのではないだろうかと。
何を馬鹿な。そんなことあるはずがない。全ての原因は私にある。
いくらそう主張しても、聞き入れてはもらえなかった。
そして、遂にはその責任を、あろうことかトレーナーに追求し始めた。
彼に全てを押しつけ、「一度離れさせた方がいいのではないか」などと、まるっきり見当違いのことを言い出す始末。
しかし、そんな的外れの意見よりもなお最悪なことは、トレーナーがそれを受け入れてしまったことだった。何の弁明もせずに、粛々と。
まるで彼自身もそれが正しいと信じ込んでいるかのように。
あなたならわかっているはずでしょう? 私が調子を落としているのはあなたのせいじゃない。私が勝てないのはあなたのせいじゃない。
全部私のせいだ。不調も、勝てないのも、全部、私が弱いから――。
――そこで、ようやく、気がついた。
私が弱い責任は、私が勝てない責任は、トレーナーである彼にも向かってしまうのだということに。
それなのに。それなのに、私は――自分の弱さを、許してしまっていた?
ああ、待って。違うの。違うんです。そんなつもりじゃなかった、私は――!
けれど、気づいた時にはもう遅かった。全てが手遅れだった。
引き留められなかった。そうする権利も、資格も、強さも、私は持ち合わせていないのだから。持つことが、できなかったのだから。
トレーナーはずっとそれを私が得られるように導いてくれていたのに、私はそれを拒み続けていたのだから。
ただ、あなたと離れたくない、ずっと一緒にいたい、あなたに選ばれたい――そんなことのためだけに。
そして、その結果として、報いとして、私はあなたと引き離される。
結局、私は自分の弱さのせいで、あなたを失うことになった。
これが報いでなくて、罰でなくて、他に何だと言うのだろう。
最後の時、あの人はこんな私に向かって深く頭を下げながらこう詫びてきた。
「――すまない。全ては僕の力不足だ。君は、何も悪くない」
全部私のせいだ。私が弱いせいだ。私がこんなにも弱いから。それを自分に許してしまったから。
だから、あなたと引き離されてしまう。それだけが真実だ。
それなのに、私は何も言えなかった。
こらえようとしても溢れてくる涙のせいで、嗚咽のせいで、一向に言葉が紡げない。
言わなきゃいけないのに。伝えなきゃいけないのに。
あなたは何も悪くないって。それなのに。
どうして、私の喉は鳴き声以外を発してくれないの。どうして、しゃくりあげることしか出来ないの。
「…………」
トレーナーはそんな私を見かねたのか、ただ黙って頭を撫でてくれた。
いつもみたいに優しく、慈しむように。きっと、こちらを落ち着かせるために。
ああ、この感触もこれが最後なんだと。
そのせいで、私はますます激しく泣きじゃくる。己を、感情を、制御できなくなる。
情けない。不甲斐ない。みっともない。そんなことだから、この結果を招いてしまったというのに。
だから――。
ごめんなさい。ごめんなさい、トレーナーさん。
声に出せない代わりに、私は心の中で必死に謝り続ける。
弱くてごめんなさい。心配をかけてごめんなさい。あなたに全てを押しつけてしまって、本当にごめんなさい。
許して欲しいとは言いません。私に、そんな資格はありません。
ただ、もしも――。私は心の中で強く思う。願うように思う。誓うように、思う。
もしも、次があるのなら。もしも、いつかまた、あなたの下に戻れたならば。
その時は、二度と弱さを見せません。決して、弱い自分を許したりなんかしません。
強くなります。強くなって、あなたが認めるくらいに、誰よりも、強くなって、次は、絶対に――。
目の端からまだ少しだけ零れる雫と共に、ゆっくりと身を起こす。
幸いなことに、ルームメイトはまだ豪快に、気持ちよさそうな寝息を立てていた。
ひとまず、私はほっと胸をなで下ろす。良かった、見られなくて。
この夢を見ること自体はいいのだが、毎回無意識の内に泣いてしまうことだけは若干困りものだった。
物音を立てないよう静かに寝床を出て、洗面台で顔を洗う。
滴る水を拭き取り、さっぱりとしたところで鏡の向こうの自分と目が合った。
この頃には、もうグラスワンダーの中では夢での記憶はかなり曖昧なものになっている。寝ている間はあれほど鮮明だったのに、今は全てがどうにもおぼろげだ。
ただ、それでも毎回、この夢を見る度に決して褪せずに残り続けるものがある。感情がある。想いがある。
強くなれ。
もう二度と、決して、後には退かぬよう。
誰よりも強い己であれ。
そう自分に言い聞かせてくる何かが、体の中で燻っている。
それは決意なのか。それとも願いなのか。
あるいは、後悔なのか。
そのどれであるとも言えないし、その総てであるとも言えるような、不思議な想い。
その存在を感じる度に、グラスワンダーは自問する。
これは本当に自分の内から湧き出てくるものなのだろうか。
それとも、自分ではない誰かの――。
こちらを見つめてくる自分を、強く見つめ返す。
どうであれ、別に問題はない。
何故ならば、それは確実に今の自分の目的とも重なるものであるのだから。
よしんば、その誰かの想いの影響を受けたことで今の自分が形成されているのだとしても。
……それはそれで構わない。その総てをひっくるめた上で、
「私は、グラスワンダーなのですから」
それがウマ娘としてのグラスワンダーの日常だ。もちろん今日も変わりなく。
グラスも今ではチームにおいてかなりの好成績を誇る花形の一人だ。最近はサブトレーナー代わりの仕事もしているチームリーダーからまとめて鬼の指導を受けているデビュー前やジュニアクラス達と違い、個別の練習が許されている。
当然、担当トレーナーの監督の下で、だが。
「――ふっ」
2200mの試走を一本終えて、グラスは一息つく。
クールダウンも済ませてようやく足を止めたところで、走りぶりを見つつタイムも計測してくれていたトレーナーがゆっくりと近づいてきた。
「どうでしたか?」
「時計はきっちり出ている。いい調子だね。このまま順当にコンディションを整えていければ、次のレースでも勝算は十二分だろう」
グラスが尋ねると、トレーナーはそう穏やかに結果を報告してくれた。
個人的にも悪くないという感触はある。いい具合に上り調子にあるとすら言ってもいいだろう。
「…………」
そのまま手を軽く握ったり開いてみたりして、全身の感覚を確かめる。気力は十分、全身に活力も漲っている。
これならば、あるいは。
「でしたら、トレーナーさん」
そう考えるに至ったグラスは、普段どおりのにこやかな微笑を浮かべながら問いかける。
「そろそろ、私のことを手放したくなりましたか?」
「……いや、僕は全然グラスのことを手放すつもりはないけれど……」
「……そうですか」
間違いなく本心であろうその返答に、グラスは少し頭上の耳を絞り、気落ちする。
「ああ、でも、グラスが移籍を希望しているのなら無理には止めないよ」
「そんなこと、これっぽっちも考えてませんからね」
まったく見当違いのことを言い出すトレーナーへ、グラスは即答する。多少の怒気をちらつかせながら。
トレーナーはますます困惑しつつも、とりあえず今のはマズかったと気づいたのだろう。すみませんと軽く頭を下げてきた。
それを受け取って怒りの矛を収めると、グラスはため息を吐いて気持ちを切り替える。
「それでは、より一層精進しなければなりませんね」
「……グラスは今でも十分以上に頑張っていると思うけどね」
並々ならぬ決意が滲むその言葉に、トレーナーはなおも不思議そうな様子。
「いいえ、まだまだです」
トレーナーの言葉へ、グラスは静かに首を振ってそう返す。
「まだまだ、なんです」
確かな実力を身につけ実績を打ち立てたり、自分から見て一人前だと判断したウマ娘を自分の下から手放したがるという困った悪癖のあるグラスの担当トレーナー。
しかし、その悪癖――「自分はもう必要ないだろう」という判断を彼にさせることこそが、目下のところグラスワンダーの最大の目標であった。
どんなライバルや、どんなレースに勝利することでもない。いや、それも確かにグラスの望みではあるが、同時に目標到達のための手段でしかない。
自分が強くなるための手段。己の強さを証明するための手段。そうして、トレーナーにもそれを認めさせるための手段。
グラスワンダーは強いのだと。もう自分の庇護は必要ないのだと。
今度こそ、彼にそう思わせてみせる。
(――今度こそ……?)
強くなれ。強く在れ。誰にも負けないくらい。誰もが認めるくらい。誰にも口を挟ませないくらい。
その上で、今度はあの人の方から手放してもらうのだ。
無理矢理引き離されるのではなく、彼に認められて、送り出される。
もう二度と心配をかけないために。もう二度と、一人で責任を背負わせないために。
私達は誰の指図でもなく、二人だけで正しい別離を選ぶ。
そのためにも――。
「いつか絶対に、言わせてみせますから」
グラスワンダーはトレーナーを真っ直ぐ見上げながら宣言するようにそう告げる。
「……? よくわからないけれど、無理だけはしないようにね」
だけど、トレーナーはやっぱりピンときていない様子で、そんな言葉と共にグラスの頭を撫でてきた。いつものように優しく、慈しむように。
こんな調子では、まだまだその日は遠そうだ。
グラスはちょっぴりそう落胆しつつも、自然と頬を緩ませる。
そうして頭部に感じる愛しい感触に浸りながら、思う。
いつかあなたに手放してもらう。その決意に変わりはない。
けれど、その〝いつか〟が訪れるまでは。まだ訪れていないこの時は。
あなたと共にいられることを、幸せに思ってもいいですよね?
mtグラという組み合わせが持つポテンシャルに以前から注目していたんですが
一向に流行る気配がないので結局自分で怪文書を書きました
ウマソウルも真面目な設定だろ!?
そのウマ娘の存在意義に関わるからな…
ウマソウルって単語自体がニンジャソウルのパロネタみたいなもんだし公式でそんな設定はねえよ!
肩を大きく震わせて泣き出すやつ
好き
ありがとう
でも弱さがあったからこそ寄り添われたというジレンマ
ありがとう…
君の力を最大限引き出すことが出来なかった
とか言われたらもう…ね
これくらいの影響は色々なウマ娘にもありそうだよね…
原作大分広まってきてるし幻覚ネタとか使ってるわけじゃないから別にそんなことはないんじゃない
むしろお外の騎手ネタこっちに転載してることも多いし
ウマソウルの一つみたいな感じでお出しされてるのは見るけど
そんなにないじゃね
そんなにないじゃね
なそ
他の三人がなんかこんなドロドロした想いを抱いてそうというか…