頬に冷たい雫が少し当たって、これから何が起こるのかを予感する。俄に厚い雲がかかり始めた空に掌を向ければ、同じものがぽつぽつと落ちてきた。
今日は雨は降らないと言っていた気がする。トレーナーが。いつも天気予報なんて見ないから、心配して出かける前に教えてくれるようになった。
とすれば、これはにわか雨だろうか。すれ違う人が傘を持っていないと言って、慌てて建物の中に入ろうとするのが見える。
勿体ないなぁ、と心の中で呟いた。
けれど、雨が降る度にみんながそれを避けるのを見ていると、外の世界を自分のために空けてくれているように思えて、なんだかわくわくしてしまう自分もいた。
「〜♪」
いつものように歌を唄って、雨の中に駆け出していきそうになるけれど、手に持っていた荷物が窘めるように音を立てて、今日はそういうわけにもいかないということを教えてくれた。
「あは、そうだったね」
アタシは濡れても構わないけれど、これを濡らすのは面白くない。漸くアタシも道行く人に倣って、雨を凌げる場所を探すことにした。
いつもの雨の日と違って、今日の行き先はきっとみんなと同じだ。でもその足取りは、ずっとずっと楽しいものだった。
だが、どうやら先客はいたらしい。
「ごめんね。ちょっとお邪魔してもいい?」
木の下に座り込んでいた黒猫にそう告げて、彼の邪魔にならないように少しだけ離れた場所に自分も座る。少しだけ眉を顰めたけれど、ぷいとそっぽを向いただけで逃げはしない彼を見て、一応の許可は頂けたと少しだけほくそ笑んだ。
青々と茂る葉に雨粒が当たったときの音は、硬い屋根のそれよりもずっと優しく響く。力強く大きな木の幹は、さっきまで燦々と照りつけていた陽の光をいっぱいに吸っていてまだ温かい。
そこに背中を凭れれば、静かだけれど力強い木の鼓動が伝わってくるような気がした。
「気持ちよさそうだね」
騒がしい人の波から解放されて、優しい雫に思うさま身を浸す。
この木もきっと、そんな喜びを知っているんだろう。
だからきっと、こんなに温かくて、優しい音がするんだ。
雨宿りも、たまにはいいな。
こんな優しい世界が、雨の向こう側にあるのなら。
荷物は木の下に置いた。これで遠慮なく踊れると、雨の中に駆け出していこうとした、そのとき。
自分を呼ぶ声が、どこかから聞こえた気がした。
傘を差した人影が、少しだけ早足でこちらに駆けてくる。ダンスの時間は水入りになってしまったけれど、悪い気はしなかった。
彼がどうしてここに来たか、すぐにわかったから。
「あは、濡れちゃうよ?」
一生懸命な彼には悪いなと思うけれど、走るのに向いた靴でもないだろうに水を蹴立てて来る彼がなんだか可愛らしくて、ついくすくすと笑ってしまう。
「やっと見つけられたから、うれしくて」
アタシに会えたことをただ純粋に喜ぶ屈託のないその笑顔を見ると、彼が迎えに来てくれたのだなと実感する。
それが、何よりも嬉しい。
今は少し上がりかけている雨も、さっきまでは彼が不安になるくらい強く降っていたらしい。雨粒が冷たさを帯び始めるこの季節でもお構いなしに雨の中を散歩して、濡れ鼠になって帰ってくるアタシをいつも彼は世話してくれるのだけれど、今日はそれが彼を心配させてしまったらしい。
「いいじゃん。濡れるの好きだし」
わざとらしく頬を膨らませて、形だけの抗議をしてみる。雨に濡れる楽しみを捨てることはないけれど、アタシを心配してくれることが嬉しいから。
「風邪を引いたら面白くないだろ?雨を楽しむのは止めたりしないから、迎えにくらい行かせてくれ」
アタシの歩調を崩すことなく、そうやっていつもきみが寄り添ってくれるのを、知っているから。
素朴な感想を口にしたアタシを見遣る彼は、なんだか少しだけ誇らしそうに見えた。
「前にこの辺を通ってさ。シービーが好きそうだなって、ずっと思ってたよ」
アタシのことを諦めないでほしいと、前に彼に行ったことがあったっけ。きみにはアタシを好きでいてほしいと、まだ言えなかったころのいじらしい思い出だけれど。
「一生懸命だよね。きみも濡れちゃってたかもしれないのに。
…ふふっ。ありがと」
今でも彼がそれを守って、アタシの心のそばにいてくれるのが、嬉しい。
何も言わなくても、心が通じ合ってる。そう感じる。
それに今したい話は、間を取ってするには少し熱が籠もり過ぎている。
かといって、濡れないようにと傘を持って来てくれた彼の気持ちを無下にするのは忍びない。
なら、仕方ないよね。こういうことになっても。
「わ」
傘を畳んでいきなり隣に入っても、驚いただけで彼は受け入れてくれた。
「こんなにいい雨なんだもん。
きみの隣で味わえないのは、いやだから」
大きめの傘を持って来てくれてよかった。
きみと一緒に入っても、アタシもきみも濡れなくて済むから。
「雨のどんなところが好きなんだ?」
アタシと違って、彼はきっと雨の中にそのまま駆け出すような酔狂はしないだろう。そんな彼がアタシの世界に興味を示すのが面白くて、口がよく回る。
「冷たくて気持ちいいところ。優しい音がするところ。
あと、これはちょっと違うかもだけど」
彼に自分の気持ちを素直に打ち明けるのが、少しだけ恥ずかしい。でも、それ以上に気持ちいい。
だから、少しくっついて言うね。
きみにもちょっとくらい、恥ずかしがってほしいからさ。
「雨に濡れたあとだと、きみが優しくしてくれるから。
家に帰ってシャワー浴びて、寒くないかって言ってもらって、髪を拭いてもらうのが好きなんだ。雨の音を聞きながら」
そういうきみの心を感じられるときが、アタシは好きだ。
雨の日も、そのひとつだから。
「だからさ。今日もあっためてよ。
きみの温度って、すごく安心するんだ」
柔らかいタオルと彼の手付きが少しくすぐったくて、一生懸命な彼がなんだか可笑しくて、少しだけ身を捩って逃げようとしてしまう。
「あははっ」
それを捕まえる彼の手も、なんだか安心して仕方ない。捕まえてもらうために逃げ出したくなってしまうから、却って逆効果かもしれないけれど。
「好きなんだろ?なら大人しくしてくれ」
「はーい。ふふっ」
そんなふうに優しく叱られるのも、きみとの繋がりを感じられて幸せだと思ってしまう。本当に毒されているなと思うけれど、きみの手を取ったあとには、それもいいなと思ってしまう。
「冷たいね。やっぱり寒かった?」
「ああ。まあ、ちょっとだけだけど。
でも、楽しかったよ」
きみの愛に毒されるのは幸せなんだと、もうアタシは知ってるから。
だから、そういうきみのいじらしさが、すごく好きになれたよ。
そういうきみを見ると、触れたくて仕方なくなってしまう。
「…!」
「あったかいでしょ。お裾分けだよ」
抱きしめた温度から伝わればいいのに。アタシがどんなに、きみに幸せをもらってるのか。
早鐘を打つきみの鼓動を身体で感じて、きみがアタシを好きでいてくれているのだと実感する。少し恥ずかしいかもしれないけれど、我慢してほしい。
そうしてでも感じていたいくらい、きみが好きなのがいけないんだから。
「ありがと。嬉しかったよ。きみが迎えに来てくれて」
髪を乾かす手を止めて、何も言わずに抱き返してくれるきみを感じる。
つい綻んでしまう顔は、きみの胸に埋めて隠すことにしよう。
「見つけられてよかったよ。シービーは雨の中でも喜んで帰ってきそうだからな」
行き違いにならなくてよかった、と安堵する彼の言葉で、どうして自分が雨宿りをしていたのかを思い出した。
「いつもならそうしてたかもね。でも、今日はこれがあったからさ」
すいと立ち上がって冷蔵庫に向かい、中から今日の荷物を取り出した。
前にプリンが食べたいなと話をして、きみが美味しそうなお菓子屋さんを隣町に見つけてくれたことがあった。
「一緒に食べよ?」
そういう思い出も全部、アタシのものにしたい。
大丈夫だよ。きみの分もあるから。
きみと一緒に味わわなきゃ、意味がないから。
「きみのもほしいなー」
アタシはプレーンで、きみは苺味。意外と甘いものが好きなことも、きみとの時間が教えてくれたことだ。
でも、容器を差し出して好きなだけ取っていいよと言ってくれるきみは、うれしいけど不合格。
ゆっくりと首を振って、口を開けてきみを待つ。
「あーん」
きみとの時間が味わいたいんだ。だったら、こうしなきゃだめだよね。
少し躊躇いながらもスプーンで自分のそれを掬って、口に持って行ってくれるきみの困ったような笑顔が、愛おしくて仕方ない。
「ちょっとすっぱいね。
でも、おいしい。すっぱくて、甘い」
夕日が見れないのは少し残念だけれど、きみの少し赤くなった頬が好きだから、それもいいなと思う。
きみがしてくれることの全部が、雨粒みたいにアタシの中に心地よく染み込んでいく。
こんなにきみが好きだったなんて、知らなかったよ。
雨は好きだ。
顔に当たる雫が冷たくて気持ちいい。耳をすませば、優しい音が聞こえる。
その冷たさが、きみの温かさを教えてくれる。
またきみのことを、好きになれるから。
シービーと雨の日を過ごしたいだけの人生だった
シービーに必要なのはそういう人間
家で看病して一緒にいる時間やちょっと弱っちゃったトレーナーが申し訳無さそうにシービーがそばにいてくれて嬉しいって言ってくる時間も幸せで困っちゃうシービーもいるよ