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ドリームジャーニーとの旅路が一区切りついた頃。競技者として、トレーナーとして次の一手を考えながら過ごす、比較的緩やかな時期。
夜。私たち二人は、極端に煌びやかな劇場を前にしていた。
「こんな場所が日本にあるんだ……」
「ええ。バレエやオペラに馴染みが無いと、なかなか知る機会はありませんよね」
ヨーロッパの国かジブリ作品から飛び出したような劇場は、暖色の光でVIPたちを出迎える。そう、VIPたちを。
周りを観れば、男性ならばタキシード、女性ならドレスといった出で立ち。隣のジャーニーはというと、漆黒のドレスに、黒の手袋という姿。制服、ジャージ、勝負服とも違う、吸い込まれそうなほどの大人らしさ。初見では思わずドキっとさせられてしまった。
「うん。さすがにちょっと緊張するけど、楽しみだよ」
そもそも、私が同席する事にジャーニーは最初乗り気でないようだった。二週間前の事。
『なに読んでるの?』
『これですか?オペラのパンフレット……オルと行く予定だったのですが、急用が入ってしまったらしく』
『そっか。……ねぇ、私ちょっと興味あるな』
『そう、ですか……ふむ』
考えてから『えぇ、行きましょう』の言葉が出るまでには、普段以上に時間が掛かった。
無理を言ってしまっただろうか。それでも、一度火のついた私の好奇心は抑えられないかった。オペラなんて観た事なかったし、なによりジャーニーについて行くといつも新しい世界を知れるから。
「貴方の用事の邪魔はしないから」
見せてもらう側なら、足手まといになりたくない。
「……はい。では、行きましょうか」
並んでセレブっぽい人たちに交じり、立派な階段を上る。もう一度ジャーニーの方を見た。
いつもと変わらない微笑みをただえた彼女は、まるで映画の中にいるように見えた。
†
オペラというのは、一度開演すると途中からの入場はできないらしい。そのせいなのか、劇場には早めに足を運んでホール(本当はホワイエと言うらしい)で歓談、という事が起きるようだ。
「知り合いに挨拶しようと思います、少し待っていてくださいね」
ここもかなり立派な空間だから、見ていて飽きないだろう。私はちょっと散策するよと言って、歩き出す直前。
「それとトレーナーさん」
離れる前にもう一度振り返って。
「くれぐれもお気をつけて」
それがどういう意味なのか、鈍い私にはピンと来かなった。
なんと今回はイタリア語での公演。外国からの観客も多い中、ジャーニーはものすごいペースで偉そうなおじ様方やマダムたちと握手をしたり、言葉を交わして笑い合っていた。一人一人丁寧に。彼女の人脈はこういう社交場で作られるのだろう……私より年下なのにすごい。関心せずにはいられなかった。
その時。
「コンバンワ、お嬢さん」
声をかけられるなんて思ってもいなかったので、露骨に驚いてしまった。振り向けば、背の高い男性。彫が深い外国人だった。
「あ、どうも……」
「オペラ、お好きなのですか?」
訛はあるけど聞き取れる日本語。どうしよう、上流階級らしい話なんて私にはできない……。
「い、いやその、なんというか初めて……」
「ああ、大丈夫ですよ。」
声から有り余るほどの余裕を感じる。
「そうだ、S席が一つ余っています」
「へ……?」
「初めてでしたらご一緒にいかがでしょうか?」
そんな、急に、言われても。
「え、でも……」
「さあ」
「でも、わ、私……」
断らないと。でも、申し訳ない気持ちも出てくる。かといってこの押しの強さ、黙っていれば事が進んでしまう。
要するに、私にはヒーローが必要だった。
「おや。お久しぶりですねヘイワース卿」
切り込むような、だけど聞き慣れた声がした。
「こ、これはジャーニーさん……」
「ご親族の方々がお探しですよ?開演前に、合流なさっては。早いうちに」
いつもの冷静な物言い、いつもの微笑み。でも目は笑っていなかった。
状況はすっかり変わった。男性はジャーニーに押され気味だ。すっかり安心した私は、人前でなければその場に脱力してへたり込んでいただろう。
「さようなら。これ以上は貴女のボディガードに噛まれてしまいそうだ」
この人もジャーニーの知り合いなのだろうか。手を振りつつ、男性は離れてゆく。周りで歓談が続く中に、ジャーニーと二人残された。
「……私たちも席に向かいましょうか。バルコニー席ですよ」
「え、まだ時間あるけど――」
「いいから、行きましょう。ね?」
しかしこの時、通り過ぎるジャーニーの尻尾が、ぐるっと脚にまとわりついてきた。こちらを見る流し目と合わせて「はやくこちらに」とでも言いたげで。私は何も言えず、彼女の後を追う事しかできなかった。
†
あの「オペラ劇場の壁に埋め込まれてるみたいなカーテン付きの席」って何なのだろう、と映画なんかで観るたび思っていた。
「まさか本物に座れるなんて……」
感慨深い。なるほどこれがバルコニー席。えらい人が座ってそうなイメージだったので、大人げないけれど、内心はしゃいでしまう。半分個室みたいなものだし、ちょっとしたお姫様気分。
この位置からだと待機してるオーケストラとか、まだ埋まり切ってない地上階の席なんかが丸見えだ。
「オペラが始まる前に」
隣に立つジャーニーの発した言葉が、浮かれた私を制止するように響く。
下界から聞こえる他の観客の声が遠く聞こえるほど、意識をこの場に縫い留められた。
「いくつか質問させてください、トレーナーさん」
「……うん」
彼女が大きく見えるのは、私が座っているからだけではないように思えた。
「先ほどの男性……彼になにかされましたか?」
細い指先で、私の肩を撫でながら問うその低い声。ソクゾクしたものを感じて思わず背筋が伸びる。
「そうですか」
満足気なトーン、少なくともある程度はそう聞こえる。
「では逆に。あなたが彼になにかしましたか?」
頭を振る。そんなわけない。
「急に誘われて慌てただけだよ、断ろうと思ってた」
「ええ……わかりました」
「あなたらしい」と付け加え、ジャーニーはステージ側に歩いていくと、カーテンをつかみ、閉めた。ここの照明は弱く、一気に闇がバルコニーを満たした。
「怒る?まさか」
強まった口調。標本のように、私は座席にピン止めされてしまった。振り返った目はそれほど鋭く、暗い中でもそれは目立った。
これじゃあまるで、尋問だ。でも、そうだとしたら私の罪はいったい何?
「……私の対策不足だったと言いましょうか」
手を後ろに組みすたすたと私に近づいてきて、見下す。
「貴方は、あまりにも無防備だ」
ここまで直接的なジャーニーは初めてだった。膝立ちでシートに乗り、肉食獣がするように私の目を覗き込む。逃げ場どころか抵抗の余地も無いだろう。
「ですから」
首筋をなぞられ、身体が勝手に反応する。可愛がるような指の動きは、なぜだか注射の前の消毒を思い起こさせた。
「一つ、印をつけさせていただきます。よろしいですね?」
眼鏡の奥でぎらぎら光る瞳。言われている事がわからない。でも。
「貴方が、望むなら……」
怖いけど、貴方がそう言うなら、きっと必要なものだって私は信じる。
「いい、よ」
自分を何に明け渡したのか。後戻りなんてできないに決まっているのに、何を言っているんだ。後悔しないか、なんて自問が湧き出る。
ジャーニーは無言で頷き、顔を寄せてくる。髪が顔に当たってこそばゆい。
「開演前ですから、なるべく我慢してくださいね。聞かれたくなければ」
耳元で、そう囁いたかと思うと。
「いっ……!?」
痛み。鈍くて強いそれが首を突き刺した。前歯、犬歯、あとはわからない。真っ白な刃が肌に沈み込むと同時に、熱い息を感じる。
「あぐ……」
行く当てもなく、滑稽に自分の両手が視界の端をただよう。
「じゃー、にぃ……」
気が動転して、思わず名前を呼ぶと噛む力が強まる。
現実感が無かった。この劇場も、痛みも、伝わってくる荒い鼻息も。抗う術なんてない。ただ彼女の背中に手を回して耐えるしかなかった。
滴るのは血?それとも唾液?
震えているのは私?この子?
いつまで続く?
わからない。
こわい。
「はふ……」
ほんの数分だったのかもしれないし、数十分掛かったのかもしれない。ジャーニーが離れたのを感じ、目を開ける。
すっかり前髪が乱れ、手の甲で口を拭う姿に何も言えなくて。しばらくそこで、無言で見つめ合った。
胸を内側から叩くような心臓の音だけが耳の中で鳴っていた。
やけどみたいなひりつく痛みが、円形にべったりと首に張り付いている。
これが印……なのか。
「……」
ジャーニーはなんというか、自分でも驚いてるように見えた。
「ねぇ……大丈夫?」
固まってしまった自分の教え子がどうしても心配で、そんな言葉が口を割って出た。
「……ふふッ」
固まっていた顔が、影の向こうでほころぶのがわかった。
「なんで笑って……」
「逆ではありませんか?普通」
口を押えて小さく笑うジャーニー。たしかに噛まれたのは私の方ではある……そうなのだが。
私は鈍いし察しが悪い。それでも、これだけ長く一緒にいれば、少しくらい教え子の事は理解できるようになったつもり。
「不安に、させちゃった?」
「……」
するとジャーニーはまた黙り込んでしまった。見えたかと思った本心はまたどこかへ沈んでいった。
「大丈夫。私にとってジャーニー以上に大切な人なんていないから」
私はただ正直でいる事しかできない。貴方みたいに思慮深くないから。ああ、でもここまで言い切って間違っていたらどうしよう。だとしたらとてつもなくカッコ悪い。
もう一度訪れた長い沈黙を、か弱い声が破った。
すっと眼鏡を外した顔は、今まで彼女が纏っていたいろんなものが抜け落ちた素直な顔だった。
「……らしくないついでに、しばらくこうさせてください」
ぎゅうっと、顔を私の胸元に押し当てて、抱きしめられる。こそばゆいような、気持ちいいような力加減。
今日はジャーニーの知らない面をいくつも知った。怖い面、弱い面……それから、こんなにこの子が軽い事。全部身をもって知れた。
気持ちが通じたと思うと、変な話ではあるけど、安心した。
「もうオペラ始まっちゃうよ……?」
「いいから」
初めてジャーニーより大人な気分だった。
†
「まあ、あなたがジャーニーのトレーナーさん?」
「はいっ、一応、トレーナーをやらせてもらってます……」
オペラというのは長いため、こうして合間に休憩時間が設けられる事も多いそうだ。ホワイエまで戻ってくるとジャーニーの交流が再開した。
違うのは、私がジャーニーと一緒にセレブの方々とおしゃべりをしている所、だ。
「緊張しすぎですよトレーナーさん、あの方々も私たちと同じ観客です」
十分な紹介と世間話を終え、マダムたち三人組と別れる。
「おや、ではこれから慣れていきましょうか」
もちろんこれ以上に危険は人に出会ったことはあるけど、明らかなセレブ相手はまた違う心労がある……!
でも、今まで外から見るだけだった彼女の世界に、入る事が許されたみたいだった。それだけ信頼してくれたという事なら、とても嬉しい。
「私をいくつもの勝利に導いてくださったトレーナーさんですから。皆様にも知っていただかないと……ふふッ」
ジャーニーの歯型は、当然おもいっきり見える位置に残っていた。隠すためのスカーフもなく、偶然持っていた湿布を貼ってとりあえず隠した。
「……」
それがどうしても気になって、ジャーニーが見てない時に湿布の上からなぞってしまう。
「お会いできて光栄です!一緒にどのようなトレーニングをなさったのですか?」
「ええと、それはですね……」
なるべく自然に、顔もこわばらないように受け答えをしていく。こんな事、ジャーニーはいつもやっているのかな。やっぱりすごい。
しかし、気づかずにはいられない事がひとつ。
「おお、それはさすが!」
「ええ、私のトレーナーさんですから。当然です」
男性の前に限ってではあるけど。ジャーニーの手が腰に回ってきて、密着してくる。その時のジャーニーの顔は、少なくとも私には得意げに見えた。
もしかして……もう目的は交流じゃなくて、「これは私の所有物。手を出すな」というアピールなのだろうか。
そう思うと、腰に置かれた手から甘い痺れが伝って。
正直、悪くない気分だなんて、思ったり。
「行きましょうか」
「うん、行こう」
しっかりと手をつないで、煌びやかな世界の真ん中を私たちは横切った。
>※女トレ:背と胸がでかめ
こいつは信用出来るな…
いい…
私も張り切ってドレスを用意した。深紅の、大胆に肩を出したやつを。
そりゃ狙われるわ
>※女トレ
なるほど
>>1
>背と胸がでかめ
なるほどなるほどなるほど