医者から告げられた言葉に安堵し、息を吐く。
こうなってしまったのは本日の放課後、担当ウマ娘・ヒシミラクルとのトレーニングの最中である。いつも通りプールに入る事を嫌がる彼女を水の中へ投げ込んだのだが、力の入れ方を間違え、左手を軽く捻挫してしまった。
彼女に心配をかけては気の毒なので、その場は誤魔化してトレーニングが終わってからこうして病院に来たのだ。しかしこんな事で怪我をしてしまうなんて、我ながら情け無いというか─衰えたなあと少し落ち込んだ。
なんでも、スマートホンでの写真撮影に使用する『自撮り棒』という道具を失くしてしまったらしい。心当たりがあった。昼頃に職員室を訪れた時に、忘れ物をまとめた箱の中にそれらしき物が入っているのを目撃した覚えがある。
カレンチャンにその事を伝え職員室まで連れて行くと、案の定件の落とし物はそれだった。
「ありがとうございます!えっと…ミラ子さんのトレーナーさんですよね?」
存じてくれていたらしい。これも担当がレースで好成績を収めたおかげか。トレーナーとして鼻が高い。
なんだろうそれは。本当に大した事をしてないし、これから残した仕事があるから断ろうとしたのだが───
「軽めのやつにしときますからすぐ済みますよ!幻術の世界で流れた時間はリアルでは一瞬なので!とう!」
理解と返事が追いつく前に、目の前が宇宙になった。いや、正確には宇宙のような空が広がった草原だ。しかしその光景は数秒で消えた。
「大変!時空に少し亀裂が入っちゃった!このままだと…トレーナーさん聞こえますかー!?」
どこからともなく、エコーのかかったカレンチャンの声が聞こえた。次の瞬間、強く真っ白な光に包まれ、思わず目を覆った。
─────10秒ほどして目を開くと、そこは見慣れた光景だった。
何が起きたのだろう。さっきまで職員室の前にいたはずだ。
そういえばカレンチャンが『幻術』とか言っていた。即座に自分の頬をつねる。痛い、紛れもなくリアルな感触だ。手首もジンジンする。
とりあえず仕事を終わらせよう。そう思ってPCを立ち上げたが、やり残したはずの仕事は終わっていた。
「おかしいなぁ…」
何か違和感がある。何に対して、何の違和感なのかわからないが、悩んでいても答えは出ない。とりあえずその日は帰宅する事にした。
トレセン学園の門を潜る。昨日の出来事はすっかり忘れていた。トレセン学園の生徒たちはいつもと何ら変わりない様子で、いつも通り賑やかだ。
「トレーナーさん!また嘘をつきましたね!!!学級委員長である私の目は誤魔化せませんよ!!!!」
自分のトレーナーに笑いながら大声で話しかけているウマ娘は強豪スプリンター・サクラバクシンオーだ。彼女もいつも通り騒がしい。
凛とした表情でトレーナーを責め立てているのはこれまた短距離で名を馳せたウマ娘・ダイイチルビーであった。彼女についてはあまり詳しくないが、有名な一族の令嬢である事は知っている。そんな子でも担当トレーナーにはあんな風に甘えるんだなあとちょっと面白く思った。
「トレーナーさん!月曜日と水曜日、それから木曜日と土曜日と金曜日と火曜日に校門でトレーナーと抱き合ったウマ娘は強くなれるというジンクスがあるらしいですよ!早速実践しましょう!」
次に目に入ったのは中・長距離で活躍するウマ娘のサトノダイヤモンドだ。彼女は確か、ジンクスを打ち破る事をアイデンティティとしていたはずだが──聞き間違えだろうか。
「あー……それたぶん、並行世界と入れ替わっちゃってますね……」
並行世界。SF映画や漫画などで聴いたことがある。確か別の次元にもこの世界は存在し、そこは世界とは少し違うけどそっくりだとかなんとか。
「なるほど…今朝から学園の人達が少し違うなーと思っていたけど、そういうことだったのか」
「カワイイ☆ユニバースは次元接続して世界の力をほんの少し借りているので、本当にごく稀にですけど、こういうトラブルが起きるんですよ…向こうの私がごめんなさい!でも、入れ替わった人を元に戻すだけならすぐにできるので安心してください!」
「本来いた場所に戻るだけならパワー消費が軽くて済むんですよー」
「ありがとうカレンチャン、本当に助かったよ」
三日後に空間転移の儀式を行う約束を取り付けてからカレンチャンと別れた。
しかし、並行世界ということはカレンチャンも元の世界のカレンチャンとは少し違うのだろうか。ふと後ろを振り返ると、カレンチャンが自分のトレーナーと話していた。
「どうだいカレン、今日の僕もカッコイイだろ?」
「お兄ちゃん!!すっごくかっこいいよ〜!!!!」
──────面妖な。見なかったことにしてその場を去った。
パラレルワールドに飛ばされたということで不安だったが、トレーニングのメニュー、ヒシミラクルの性格や運動能力その他に、元の世界との差異はほとんど見られなかった。
「いや〜ミラ子はいつも変わらないでいてくれて、安心するよ」
「いきなりどうしたんですか?悩みがあるなら聞きますけど、揉んだ分は奢ってくださいね」
こっちの世界でも俺はミラ子のお腹を揉んでいるらしく、セクハラで解雇されることは無かった。俺を信じてよかった。
しかしすっかり忘れていた、自分は今捻挫しているのだ。普通のトレーナーなら、ウマ娘のトレーニングに物理的に干渉する事はあまり無い。しかし俺の場合、今の怪我ではヒシミラクルをプールに投げ込む事ができない。
「うーむ……片手で…いや足で行くか…」
プールサイドでブツブツと呟きながら悩み続ける。3分ほど悩んでふとプールの方へ意識を向けると、なんとヒシミラクルが泳いでいた。
一瞬呆気に取られた。慌てて、泳いでいるヒシミラクルの方へ走り寄った。
「プールサイドで走ったら危ないですよー」
「……ミラ子、お前どうした…?」
「どうしたって…トレーナーさんが何か考え込んでたので、いつものメニューを先に始めちゃってたんですけど。不味かったですか?」
なんということであろう。あのヒシミラクルが、自分から泳いでいる。何の抵抗も、葛藤も、苦しみも無く、ただそこで泳いでいた。
「ブラボー!!!!おお……ブラボー…!!!!!」
ヒシミラクルはちょっと引いていた。周りで泳いでいた他のウマ娘やトレーナー達はドン引きしていた。
しかし、ヒシミラクルが泳ぐ。そうとなれば話は早い。
「よーし!二百五十メートルを三十本!それぞれクロール・背泳ぎ・バタフライで三セットずつ!終わったらバタ足三十分とウォーキングを十往復だ!!!!!!行け!ミラ子!!!」
その日のトレーニングは今までで一番捗ったかもしれない。
余談だが、トレーニングが終わってから彼女が「ミラ子って呼んでくれるんですね」と、少し恥ずかしそうに、嬉しそうに笑っていた。どうやらこっちの世界では違ったらしい。
何やらお兄ちゃん☆カッコイイ☆最強と書かれた団扇を手入れしていたが、見なかった事にした。
「それじゃあいきますよー…えいっ!!」
目の前が真っ白になった。前の時のように宇宙のような空間を介さず、気がつくとプールサイドにいた。
「戻った…のか……?」
移動する前と場所が違う。あっちに行った時もそうだったが、そういえばカレンチャンにその事を尋ねたら、ほんのわずかな時間のズレが生じるけれど、十時間以上ズレる事はないので心配無いと言っていた。どうやらこっちの世界の俺は今、プールでヒシミラクルにトレーニングを付けていたらしい。
「トレーナーさん?ぼーっとしてどうしたんですか?」
「ていうかさっきまでジャージじゃありませんでしたっけ?」
ふと頭に陰が過る。果たして、本当にここは俺が元いた世界なのか?
もし違ったら、またカレンチャンにお願いするのか?それで、また違ったら、また別の世界に行って───
それを、ずっと繰り返す事になるのだろうか?
「なんでもないよ。さあ、泳ごうか」
「え、嫌ですけど…」
ふっ、と思わず笑みが零れた。
「なんですか…?何で笑って…気持ち悪いですよ」
「あー……ほっとした」
捻挫していない方の手を広げ、腕を突き出す。そのままヒシミラクルのお腹に当てる。
────発勁。武術における掌での殴打攻撃。正確には、自分の運動エネルギーを対象に作用させる中国拳法の技術の一つである。ヤエノムテキから教わったのは、相手をまったく傷付けずにただ『飛ばす』だけの技だ。実践するのは初めてだが───。
「うわー!!!!!」
大成功だ。ザッパーンと聴き慣れた音が響く。
「いきなり何がぼするんがぼか!!!!鬼!!!!悪魔!!!がぼがぼトレーナー!!!!!」
「うんうん」
やっぱりこれだ。俺のヒシミラクルはこうでないと。
トレーナーは手のかかるヒシミラクルが好きなのかなぁと思いました
酔歩するトレーナーはいなかったんだ
それだとヒシミラクルが歪んだ存在になってしまう…
泥んこになって遊ぶいい子だろう安心しろ
大体どのトレーナーも人間やめてたりやめさせられた性能してる
そうかもしれない
だがそれはもう観測出来ないのだから考えたってどうにもならない
何も変わった所が無いのなら≒は=になる
まずはプールに突っ込もう
でも「泳ぐのが得意なヒシミラクル」よりは確率高そうじゃない?
理想のお兄ちゃんは元の世界含めていくらでもいるけど
中学生に手を出すお兄ちゃんはいないのだ
イマはどこにも無い
効率よくミラ子を飛ばす為
平行世界を行き来するための軸だからでは?
似た人が少し上の学年にいる
馬名も無いので....