しっかりとまとまっていながら、胸のポケットから顔を出す白いハンカチや、少し緩くボタンを開けられたシャツの襟元は、どう堅くまとめようとしても遊び心が隠せない彼女の自由さを象徴しているようで、そこから覗く細い首から目が離せなくなる。
細身のパンツが脚の長い彼女によく似合うのは、もう散々魅了されてきた自分が一番よく知っている。
「いいでしょ。マルゼンが選んでくれたんだ」
可愛らしい怪物たちが街に溢れ出す日に、生活感の隠せないアパートの一室にいても、その吸血鬼はひどく美しかった。
男も女も虜にしてしまいそうな美しさも、くるりと回ってマントを翻す仕草の可愛らしさも、同じくらいに似合うのは、本当にずるいと思う。
「そうだな。似合ってるよ。
シービーは昼間でも出掛けちゃいそうだけど」
彼女の仮装があまりにも似合いすぎているから、少し揶揄わないと黙って見惚れてしまいそうになる。そんな照れ隠しさえも愉しむように、彼女は陽気にころころと笑った。
「あははっ、そうかもね。
夜しか歩けないって、我慢出来ないかも」
きっとこの美しい吸血鬼は、塵になる瞬間まで愉しそうに笑っているのだろう。その最後の一瞬まで、心を掴んで離さないまま。
「食いしん坊の吸血鬼さん、美味しいケーキはいかがですか?」
自分もすっかり彼女に中てられてしまってそんな気障な台詞を吐いたというのに、次の瞬間にはあれ、と間抜けな声を出してしまった。
この日のために買っておいた、とっておきのショートケーキがない。正確に言えば、一緒に食べようと思って2つ買っていたものが1つしか残っていない。
「残念。それ食べちゃった」
「本当に食いしん坊だな。血じゃ足りないのか?」
「うん。だってさ、美味しそうだったんだもん」
どうやらお菓子よりも先にいたずらを仕掛けられてしまったらしい。慌てるこちらを実に愉しそうに見つめる彼女になけなしの負け惜しみを返しても、その微笑みは微動だにしなかった。
「残りもあげるっていうのはなしだよ」
残った一切れを皿に移そうと戸棚を開けようと伸ばした手も、彼女に釘を刺されて止まってしまう。切れる手札を全部使い切ってしまえば、あとは両手を挙げて降参することしかできることがない。
「じゃあ、どうすれば…」
困り果てたこちらの顔を覗き込む彼女は、自分に身を委ねるその言葉を待っていたかのように、満足そうに微笑んだ。
「しょうがないよね。アタシが食べちゃったんだから。
だからさ、いたずらしてよ」
「そこまでする?」
「きみが何をしてくれるか見たいんだもん」
彼女と親しくなる度に、きみは何をしてくれるの、と求められることが増えたように思う。
彼女の眼鏡に適うような何かを見つけるのは確かに大変だけれど、そんな自分の心を彼女が欲してくれることも、それがぴたりと嵌ったときに彼女が浮かべる満面の笑顔も、それまでの労苦を忘れさせるには十分に過ぎた。
どんなに無茶なことを言われても、彼女が笑ってくれるなら応えたくなってしまう。今までも、これからも、きっとそうだ。
「…じゃあ、目を閉じて」
だから今だって、何をしてくれるのかと心待ちにしている彼女のことしか、もう考えられない。
そのくらい、彼女に夢中になっていた。
吸血鬼なら使い魔がいるだろ?」
擽ったそうにぴくぴくと眉を動かしていた彼女に、なんとか目を閉じたまま我慢してもらった甲斐はあっただろう。手の甲に描かれた小さな翼を見つめる彼女は、満足そうに目を細めて、柔らかく微笑んでいた。
「…ふふふ、そうだね。
ありがと。かわいい」
「目を閉じてって言われたからさ。キスされちゃうのかなって思った」
言葉にも砂糖がまぶされて、どんどん甘くなっていく。それに胸焼けしてしまったことは、一度だってないけれど。
「はは、それは流石に恥ずかしいな」
それは麻酔のように染み込んで、幸せな痺れをもたらしてゆく。だから、そんな言葉を聞いていた彼女の瞳の中に、甘さとは別の熱が宿っていることに気づくのが遅れてしまった。
漸くそれを感じて、遅まきながら早鐘を打ち始めた鼓動に耳を澄ませるように、ぴたりと胸に凭れかかった彼女が、妖艶に微笑んだ。
「…してくれないの?キス」
改めて問うた彼女の言葉は、その熱で融けてしまうと思えるくらいに熱かった。
いつもの爽やかな笑顔ではなく、どろりと融けるような妖しい微笑みが、ゆっくりと近づいてくる。さっきのケーキよりもずっと、美味しいごちそうを見つけたとでも言うように。
「…後で」
漸く言葉を発することができたのは、彼女の唇が帯びる熱を感じてしまうほどに、ふたりの距離が近づいたときのことだった。あとほんの少し近づけば、触れ合ってしまうほどに。
その寸前で怖気づいてしまったのに、彼女はそれを気に留めることもなく、また愉しそうにくすりと笑った。
「…ふふっ。じゃあ、楽しみにしてるね」
彼女と離れてキッチンに立っているときでも、その言葉と熱がぐるぐると身体の中で渦巻いている。火加減が落ち着いて思考に暇ができれば、気づいたときには彼女の温度と唇の柔らかさのことを考えている。
本当に厄介だ。彼女の毒は本当に自然に、気づかないうちに回ってゆく。
甘く優しく食べられてしまうのが、幸せだと思ってしまうなんて。
そんなふうに沈みかけた意識を、外の空気が少しだけ現実に引き戻す。寝床の中に一瞬だけ流れ込んできた冷たい空気は、甘いシャンプーの香りですぐに塗り替えられた。
「こんばんは、アタシの眷属さん」
ゆっくりと身体を翻してその匂いの方を向くと、悪戯っぽく微笑んだ彼女が、腕を広げて待っていた。
「…ん、どうした?」
寝巻姿の彼女をこうやってベッドに迎え入れるのは、そう珍しいことではない。心地良い温もりの中に訪れた幸せな時間を拒む理由はどこにもなくて、そのままぴたりと身体を寄せて、彼女の温度で暖を取る。
お互いに曖昧な意識のままなら、甘えるのも甘えられるのも恥ずかしくない。そんな思いを知ってか知らずか、答える彼女の表情はどんどん甘く蕩けてゆく。
「キスをもらいに来ました」
一度落ち着きを取り戻した心臓が、また思い出したように早くなるのを、愛おしそうに見つめながら。
昼間はあれほど焦れったかった距離があっという間に埋まってしまって、彼女の熱が唇から、抱きしめられた身体全部から流れ込んでくる。
さっきまでの温もりは暖かくて心地よかったけれど、今のそれは熱くて融けてしまいそうになる。身体の上にしなだれかかる彼女の柔らかな重みも、首筋に添えられた指がどこにも行かせないように頬を優しく撫でるのも、何もかもが頭の中をどろどろに融かしてゆく。
唇も、頬も、身体も、何もかもが彼女を感じるためだけに使われていく。自分のものだった全てが、ゆっくりと彼女のものになっていく。
それが嬉しくて仕方ない。ずっとこうしていられるなら、融けてなくなってしまってもいい。
心から、そう思っていた。
長い長いくちづけをして漸く唇を離したときに、彼の顔がすっかり蕩けきってしまっていることにひどく満足感を覚えて、今度はその唇に指を這わせた。
「嬉しかったよ。きみがいたずらしてくれて。
だからね、もっとほしくなっちゃったんだ」
彼と愛を交わすときには、自分の気持ちを偽らないことにしている。ありのままにどこまでも彼を欲して、彼がそれを受け入れてくれるのが、何よりも嬉しいから。
「…なんで、こんな急に」
でも、今日の彼はまだそういう気分になりきれていないらしい。昼間のやりとりは素敵だったけれど、少しだけ甘すぎただろうか。
でも、やめてなんかあげない。アタシはもう、きみのことしか考えてないから。
「きみのせいだよ。
きみからごちそうをもらうのも、きみにいたずらするのも、ぜんぶやりたくなっちゃった」
「だからさ、ちょうだい?
きみのいちばん、おいしいところ」
でも、今のアタシは吸血鬼だから。どんなところよりも、ここが美味しそうに思えて仕方ない。
「あ…!」
染み込ませるようにゆっくりと、彼の首に唇を触れさせる。ゆっくりと音を立てて啜るように吸い付いて、優しく、けれどはっきりとわかるように甘く歯を立てる。
その奥にあるきみの全部がほしいと、唇から伝わるように。
あるとき、いきなりここにキスをしてから、彼はここに唇をつけることにひどく敏感になった。それからというもの、くちづけの度に切なそうに身体を震わせる彼がどうしようもなく可愛らしく思えて、幾度愛してもそこに触れるのを止められない。
首筋をゆっくりと舌で圧すと、どくん、どくんという鼓動が伝わってくる。それがどんどん早くなっていくのがわかる度に、アタシの中の熱が出口を求めて、どうしようもなく焦がれてしまう。
本当に血を吸ってあげることはできないけれど、できるならそうしてみたいとさえ思う。たとえそれが血の一滴であったとしても、きみの存在を感じていたい。
でも、今はそれが何となくわかる。
こうやって手を繋ぐのも、抱きしめあうのも、血を吸うのも全部一緒だ。
きみがここにいるって教えてくれる。だからこんなにも、その温もりに夢中になってしまうんだ。
きみのことを感じていたい。きみにアタシを感じてほしい。陽の光の下を歩けない吸血鬼でも、きっとそれは変わらないだろう。
好きな人の血なら、きっとさぞ美味しいに違いない。
だから、きみのことを感じるためなら、どんなことでもしてみたいと思う。きみのために血を啜って夜を歩くことさえ、きっと愉しいと思えるくらいに。
きみの血はどんな味がするだろう。甘いだろうか。酸っぱいだろうか。それとも苦いのかな。
たとえそれがどんなものでも、きみがアタシを喜ばせてくれるときと、同じ気持ちになれたらいいな。
それがきみの心の味なら、アタシは絶対に好きになれるから。
「ぁは、もうこれでアタシのものだね。心も、身体も、ぜんぶ」
いつも思慮深い彼は、こうするとその反動のようにやけに幼くなる。普段の彼の姿を知っているからこそこういう一面も可愛らしく思えて、意地悪とわかっていても彼を責めるのをやめられない。
「吸血鬼がさ、誰かを好きになったら、どうしたらいいと思う?」
白痴めいてすらいる彼がただ黙って首を横に振るのをいいことに、アタシは彼を自分のものにしてゆく。それがどれだけずるいと言われても、気にもならない。
「お互いに血を吸い合うんだって。そうしたら、お互いがお互いの眷属になれるでしょう?」
「アタシはきみのもので、きみはアタシのもの。
なんかさ、ぴったりじゃん。アタシたちに」
好きなひとを思う存分に愛して、アタシのことしか見えないようにする喜びも、好きなひとのものになって、骨の髄まできみに溺れる幸せも、なにもかもきみが教えちゃったんだよ。
アタシの好きな自由も、きみの愛も、ぜんぶアタシのものにしたい。
きみのせいだよ。こんなにわがままになっちゃったのは。
──だから、責任、取ってよ。
ちゃんとアタシのことも、きみのものにしてほしい。きみがアタシにとって、そうであるのと同じように。
「ぁ…あ…!
…ふふっ」
こんなときまで優しいのもきみらしくていいと思うけれど、今はもっと、アタシのことを欲しがってくれるきみがいい。
彼とおそろいの赤い花が咲いた首筋を撫でると、まだ甘い痺れが残っているような気がする。一度味わってしまったら、身体を融かしつくしてしまうまでやめられない、心地よい痺れが。
「よかったよ。
…もっと吸って?」
「…いいの?」
「うん。
まだ、全然足りない」
ここにも、ここにも、まだしてもらってないよと、ボタンを開けた胸元と唇を指で指し示す。
恥ずかしそうに頬を赤らめて目を伏せるのは可愛いけれど、もうそれで満足できるほど、アタシは謙虚じゃないんだ。どこを愛してもらうのかは、きみが決めてくれないとだめ。
きみから貰うキスが恋しくて、ここまで来たんだから。
だからアタシも、ありのままに伝えたい。今ならもう、引き返せないから。
「好きだよ」
きみのくれたキスは、ずっと伝えたかった言葉の味がした。
40年前から色んな人の脳味噌焼き続けてる女だからね
自由奔放なシービーの錘にもなれるし一緒に楽しむこともできるからね